まままま、まじょりてぃ

夢にチャットモンチー橋本絵莉子さんが出てきたので、久しぶりにチャットモンチーを聴いていた。心の泥を掬われて沈殿が舞うように、涙が自然に溢れそうになった。さいきん音楽を聴いて、心がこんなに揺さぶられることがなく、素晴らしすぎる君島大空さんを聴いてもこんなことはなかったので、新鮮な気持ちだ。

チャットモンチーはぼくが初めて聴いた、いわゆるJロックだ。生粋のオタクだったぼくはそれまでアニメの主題歌や声優さんの歌う曲と、母から貸し与えられた嵐とスガシカオしか聴いたことがなく、初めてのTSUTAYAで『生命力』を借りたこと、今でも覚えている。

チャットモンチーは特別に悲しい歌とかでなく、日常のちょっとしたことが一生懸命で泣ける。こんなに特別なことが毎日の暮らしにあるなんて、なんて眩しいんだろう。親知らずとか、majority bluesとか、なんてことない日々をどれだけ特別にできているんだろう。その描写と感性の瑞々しさと、自分が持ててこなかったあまりの素直さへの遠さと、どちらも相まって苦しくなって、涙が出てくる。橙とか、こんなに強く自分の感情に素直になれるんだ。おれはどこに行けるんだ。おれなんかの人生を、チャットモンチーの3人だったらどう感じるんだろう。おれ、生きてていいんだろうか。きっといいんだろうな。

さいきん人がよく亡くなる。遠いところにいる人だけじゃない、会ったことも交流を持ったこともある人も亡くなった。死を選ぶってどんな気持ちなんだろうか。おれは10代の頃からずっと興味がある。もちろん苦しくて死にたいような気持ちになったこともあるが、それはそれとして興味があるんだろう、終わりを選ぶということに。人は誰でもいつか死ぬ。結果論だけでいうのであれば、10年だろうが100年だろうが終わりはおんなじだ。おれはどうやって死ぬんだろう、そう考える。おれの終わりってなんだ?そもそも生きているってなんだろう。中学生が考えるようなことをおれはもう20年以上考えているし、その時その時で良いと思う方へ足を向けてきた。ふと部屋に目を向けると余計なものばかりで溢れている。生きている間も、死後にも何にも持っていけないのに。ひとつだけ、ひとつだけ大切なものがあればいい、そんなこといつも考えていたけれど、大切なものも自分も、どんどん変わっていくんだ。大切なのは選び続けること。なんだかとても、さいあくななちゃんに会いたいなあ。東京で出会って、いちばん生きている人が彼女だから。いつか全部にありがとうって言える日が来るんだろうか。