みえないみえる、輪郭のうちとそと

あなたは運命を信じますか、信じるか信じないか、それは絶対的なものでも宗教的なものでも超自然的なものでもなく、ぼくにとってはその他雑事や常識や良識を積み重ねてきた当たり前の事象と同様だ。信じざるを得ない、あるに違いないと思った出来事が、いくつもあっただけ。目に見えないものを信じる?たとえば幽霊とかもそうだが、人の目は放射線を映さない。目に見えないものなんて実は当たり前にあって、なんなら知られていないこと、その存在を認知すらされていないものもあって然るべきだ。そしておれは目に見えていなくても見えているような気がするもの、感じているような気がするもの、直感や確信か背中を押すもの、そういったもの、五感や人間の持つ感性や可能性を信じている、そういう話だ。たとえばあなたに親友はいますか?愛しい人は?家族は好きですか嫌いですか、出会った人に出会えたこと、それが行き過ぎたときにぼくは運命だと思う。運命の人、なんて別にロマンチックでラブリーなことだけでなく、たとえば憎くてたまらない人や嫌いな人、そういう人にだって当てはまることはある、言葉から事実を抽出するとそこに属性はないので。人格は脳の電気信号らしいが、自分の意識や自我や人格をわたしは事象として認識することはできない、なぜなら認識しようとしている自我こそが認識されうる対象なので。つまりわたしは、ただわたしがここにいるということだけ存在している。それは生きているということかもしれないし、今これを読んでいるあなたも生きていて、今今日まで生きてきたということ。ぼくはぼくという肉体を操作してここまで来た、そしてここに立っている。ぼくの外側、あなたも含めたぼくの外側と今ぼくが立っている世界の大きなうねり、匂い、光と熱と見えないけど見えて感じ取っているもの、ぼくは信じている。見えないものも知らないものも信じている、それは根拠がないわけではなく、信じてるべきだとぼくの存在が言っているからだ。つれてってね。