ようよう白くなりゆく

春は曙というが、思い返すと曙の春景色を眺めたことはない気がする。ただ桜はいつだって綺麗で、たとえ自分がどんな状態であってもこの季節になると救われるような気になる。桜だって毎年まったく同じ花を咲かせるわけではないけれど、それでも変わらずに美しい花を咲かせてくれるということ。目まぐるしく変わる環境や状況や自分自身に対して、変わらないでいてくれるものがあるということは、やはり一息つくところではある。

 

最近の話だが、正味なところ、かなりまずい感じ。ずっと目標にしていたことが成就したものの、これから始まる途方もない道を目の前にして足がすくんでいる。また生活の基盤も失い、目がまわるような予感の中で、現実から目を逸らすようにゲームばかりしている。その事がまた焦りを増長させ、震えを起こしている。また悪いことは重なるというか、長らくたぐっていた糸が切れたように、堰を切ったように人間関係が巡ったりしている。あと、なんか占いの結果も良くなかったらしい。数年くらい大変とのこと。

 

思いつきで厄年を調べてみたら10年後だった。10年後、自分は生きているだろうか。友人に「この人はしぶといから死なないと思う」と言われた。よく言われる。そう見せられてるんだとしたら上手くいっているなと思ったが、えもいわれぬ悲しみがよぎった。「自殺する前に言ってくれ」と地元の友達に言われた。言われた時は、何を言っているんだと思ったが、本当にその時は言おうと思った。少なくとも、そう伝えてくれたことに対しての信頼がある。希死念慮って無い時は馬鹿な考えだと思うが、ある時はずっとそこにあるから全然まったく冗談ではない。

 

むかし大学の先輩が「仕事が大変すぎてこれ以上働ける気がしないから家族が欲しい、守るものがないと頑張れない」と言っていて、そんなに仕事が嫌なら転職すればいいのにと思った。仕事のために家族が欲しいだなんて本末転倒だと思ったが、今は少し気持ちがわかるかもしれない。生きる意味なんて待ってても無いから作るしかない。そういう意味では目に見える人間関係は生きる意味を持つ上でいちばんわかりやすいのかもしれない。あと結婚や家族って概念はこの国で暮らす上でかなり権威もあって親しみやすいし。

 

結局どこまでいっても自分が好きな自分であるために戦い続けるしかない。ただそれってたぶん終わりがないから、じゃあ死んだ方が早いなって結論に至るのか、これがおれの持つ希死念慮の大きな理由かも。

 

悟ったようなことを言えるのっていつだって渦中ではなく終わったことに対してだ。もうこれ以上歩けないと歌った橋本絵莉子さんは、その後どうやってまた歩き出したんだろう。人の意志だけが美しい。おれはまだ贅肉をつけた精神を抱えている。空が白んできている。春は曙。眠れない夜の果てではなく、朝早く起きてまた会いたい。