晴れ

2022年4月11日、穏やかな昼下がり。「これが無いと死んじゃう」みたいなものを追い求めすぎていたのかもしれない、劇的なことを日頃から求めがちな方である自覚はあるが、シンプルに外に出たらめちゃくちゃ良い天気だったくらいのことに救われてきたことの方が多かった気がする。電車の車窓から眺める街並みと気候に鬱が晴れていくのに近い感覚を思い出して、直結的にそう思った。昔から一定の条件下で感覚と言葉が一体となっているような、その上で自分がそこにいて、またどこにもいないような感覚になることを脳が宇宙に繋がると呼んでいた。古い友人はそれを透明になる瞬間と呼んでいた(と思う。たぶん同じ感覚を指していると思っている)。条件としては眠たすぎず目覚めすぎず、ちょうどよく眠たいということがあって、その日おれは身体と精神が不調で午後からの出勤を決めた日のことであった。おれにはなんでも白黒を付けたがる性質があるが、輪郭や境界が曖昧なところにほどグッとくるものが多いとも思っている。というか真実や真理みたいな風に呼ばれがちな概念をはらむものの大概はそこにあると思う。理屈でも感覚でもなく、息を吸うように考えて行動した、でもその下地には当然のように理性も感情もあって、そういうものの先に予想していたような、予想もしていなかったような、でも最初から決まっていたような気もする事象が待っていると私は思う。白や黒と名付けて何かを縛りたいのはこちらの思考の都合であって、物事はただそこにあるだけなので。そんなことを思いながら、次の瞬間、思考は過去へ遡る。自分は色々なことに対して自覚的だ。自分は悲しんでいるのか、怒っているのか、優しいのか、欺瞞なのか。そうしたことを、反芻するかのように繰り返し自覚する。そうした性質から長らく、孤独は絶対であるという事実に耐えられなかった時期があった。この性質は、自分は孤独であるということを直視するには人生は重すぎると感じさせる要素だったように思う。ああでも、ひとりぼっちになりたかったり、ふたりぼっちになりたかったりしながら生きている。イヤホンを耳に押し込んで音楽を聴く時、おれはひとりになりたいし、誰かと話を交わすとき、その相手以外要らない。(ここでいう)孤独がなければ誰と何を交わすことはできないから、それは悪いことではないと思う。ところで戸田真琴さんの映画『永遠が通り過ぎていく』ってタイトルつらいな、永遠に通り過ぎられてしまったらおれは泣いちゃうよ。そういえば話は変わるが、というかまた話は変わるが先日、怖い夢を見て目が覚めた。凝ったものではなく、シンプルにただただホラー映画のような怖さで、心臓が早鐘を打ち、目が覚めた。さいきん悪夢を見ることが増えているが、ただ圧倒的に怖いだけの夢を見るのは珍しく、まだ覚えている。書くことないなあと思っていたが、久しぶりに色々と思う日のことであった。