定額制生き放題

おれは感動屋さんだしその分悲しいようなこともどっぷり悲しくなってしまう癖がずっとあったんだけど、感傷になんて意味ないみたいな風潮に苦しめられてきたのめちゃくちゃ馬鹿馬鹿しくなってきた。おれはただ自分の感情に誠実でいたかっただけだし、自分の感情は自分という存在から生まれた掛け替えの無い自分だから余すことなく受け入れたかっただけだ。もちろん浸りすぎて生活がままならなくなったり、妄想と現実の区別がつかなくなって頭がおかしくなったりとか実害はあった、それはその通り。でも良い感情は沢山持つべきだし悪い感情は捨てるべき、みたいな言説に対しておれの生き方は根本的に即していないし、なんかすごく「センスの良い生き方」に憧れていた時期があったなあって思い出した。人って幸せにならないといけないんですか?最後は等しく死なのだから、それ以外真実ではない。となると逆にいうとルール上、生き放題ってわけだ。人は幸せになる自由もあるし、不幸になる自由もある。不幸だと思っていた未来が幸せかもしれないし、幸せだと思って目指したものが不幸である可能性もある。そう考えると自分の想像する枠組みより、もっともっと意思も世界も自由だ。自由って怖い?それは自由が怖いんじゃなくてきっと痛みが怖いんだよ。そうやってひとつひとつ、自分の中の概念の解像度を上げていくのに、これまでの全ては必要だったってわけ。そうなるともう必要なことだらけの人生って豊かって言えませんか?

 

ある程度気を許した人に決まって訊ねる質問がある。「運命って信じますか?」

おれはめちゃくちゃ信じていて、これまでの選択で出会ってきた奇跡が本当に信じられないくらい奇跡的だったから、(それは奇跡的、というだけであって、その属性は良い場合も、悪い場合もあった)、運命としか思えないという道筋で運命を見出しているんだけれど、

こないだ友達が「自分で選んできた道を正解にしていくしかないんだよね」って言っていて、ああ逆引きするとそうなるのかって思った。

おれは全部運命だと思ってきたけど、もしかしたら全部自分の手で正解にしてきたのかもしれない。どちらにせよそれは素敵なことだ。どちらにせよそれは素敵なことだが、世界の見え方がひとつ増えた、その点に関してはただただ良いことだった。あと素敵な友達がいて嬉しい。良いことばーっかり。