クラゲ

忘れたくないこと。

言葉は不完全で不自由な、暫定的でしか足りえないツールだけれど、余すことなく伝えようとすることを、言葉を尽くすことを諦めない人が、おれは好きなのかもしれない。

 

毎日生きていたらあっという間に過去が積み重なっている。そのどれだけが、意味のある、生産性のある過去だったのだろう。おれは何のために生きる?そんなことを、もしかしたら誰もが一度は思ったかもしれない、思っていないかもしれない、忘れていったであろう言葉を、わたしは今でもずっと、ずっと、自分に問い掛け続けている。

人生に意味はない。そうなのかもしれない。ただ、それを、理屈でなく、本当に実感している人もまた、どれくらい居るのだろう。わたしは自分の人生に意味があるとも、無いとも、実感をまだしていない。終わってから意味が生まれる?それもそうかもしれない。でも、その推測は、わたしにとってその問い掛けを止める理由にはなり得ない。

というか、なんなら、問い掛け続ける意味の方が増えていく。だからこそわたしは、いつだって良くあろうとしている。自分の生きる意味がわからないから、生まれるかもしれない、残るかもしれない、良くなるかもしれない方向を模索して生きてきた。その結果、得られたものが沢山ある。だから本当はどっちでもいいのだ。もう手にしてしまったものが沢山あるので。

 

おれがおれであること、本当はよくわからない。変わらないものが欲しいと思い続けていた頃があるが、あれは「おれ」という存在が確固たるという前提のもと、その土台の上に光を手にしたいという希望だった。

でも昨日のおれと今日のおれは、もうとっくに違うのかもしれない。友人がかつて実存主義が嫌いだと言っていた。実存なんかしているわけがないだろって、なんとなく覚えている。それが同じ感覚かは少しわかりかねるが、なんとなくわかるような気もしてきた。

 

どうしようもなくおれが居てしまう、そう思っていた時期もあったが、今のおれは、あの頃と比べると半透明であるようだ。それは悪いことではなく、世界が広がったということ。おれを形作る要素が増え、流動的になったということ。それはもっともっと、良くなっていけるということだ。もちろん悪くなる可能性もある。でもどちらもあるなら、心地よい方を見る方がよくないか。そういうことです。

 

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