小雨が燦々と降る夜はエモい

詩、もしくは思想の日記

泥の器

深夜4時、沈黙が飽和して騒々しくなってくる時間帯に少しだけ一人であることを思い出す。サーキュレーターが冷やす頭の先から脳があって脊椎を通って肉肉肉、腰の先に二つの長い骨とその先に床と重力があってああ、全身があるのだとゆっくり考えるのはだいたいいつもこのくらいの時間で、眠りについて朝になるとそういったことはもうすっかり忘れて光が始まってしまうのだった。近々、体調が頗る悪く、体調が悪いと精神まで浮腫んでくるもので、泥の容れ物に魂が入っているような感覚で日々を流していた。大好きなハヌマーンサブスクリプションサービスでの音源配信を始めたので少し沸いたりなどした。ハヌマーンの自分の中での特別性を出会いと共に振り返ってみたが文字にしてみると自分の中の特別性があまり輝いていないような感じがして具合が少し悪くなってしまった。形の無いものを固定化して外に出すのは難しいと久しぶりに感じた。久しぶりに感じたということは久しぶりにそれを熱心におこなったということで、それが最も苦しいことであったということを思い出す。わたしがわたしであることと、わたしの中に何かが生まれること、そしてそれが形を成して脳や身体の外に生み出されること、そしてそれがどのように扱われるか、全て別々であるということ。命は限りあるのだということ。暮らしていくということ。暮らすということは身体という乗り物で時の流れの中を運んでいくもののような感覚をおぼえる。わたしは生きる道をいつも川のように思い浮かぶ。流されるように生きたり泳ぐように生きたり、水底に足を踏みしめて歩くように生きたり、それぞれだ。泳ぐように生きるのに憧れる。このブログはもう5年くらいやっているので昔のことを読み返すと面白かったりする。知らない自分がそこにいて、でもたしかにそれを知っている。不思議な感覚だ。続けるのが苦手だけれど続けておいてよかった。明日はどんな日になるだろう。どんな日にしよう。いいことが起こらない気がするけど、そんな日にいいことが起こったりもする。考えても仕方のないことは置いておいて、やるべきことをやる。今も勉強中だけど、いつまで勉強するのか。成長しないって約束ができる眩しさよ。成長してくれ。