小雨が燦々と降る夜はエモい

詩、もしくは思想の日記

世界の中心

誰かへの強い感謝の念だけが器を支配するときは依存と紙一重だということを自覚している。わたしは誰にも触れられないわたしだけのものを大事にしたくて、その究極は過去であり思い出であり過ぎ去ったわたしの感情なので、長いあいだ感傷に強い執着を持っていたのではないかと思い至った。忘れたいことなんて沢山あるし何一つ無い、それはなぜかというと記憶の好き嫌いよりも誰にも触れられないものを持っているかの方がきっとわたしにとって重要だからだ。でもそれとは別に持ってて苦しいものは忘れたいという感情はあるし、少し考えるだけで脳のキャパシティがオーバーフローしそう。これからのことを考えてみてもこれから何が起こるかどうなるか想像がつかない。そうなると今しか無いんだけど、今しか無いが行き着く先はやるべきだと思うことを永遠にやる機械になることなのでそれはそれでまあまあしんどい。そうなると思考は遠回りしながら結局はやりたいことをただやるということが健全ということになるが、そもそもやりたいことってなんだ?という新たな思考のルートと、怠惰が紙一重で耳横を通り過ぎていくため、この身体は何も無い白い空間にボロキレのように放り投げられるしかなくなるのである。みんな安心や安全や安泰や健康を本能的に捉えているように見える、見えるだけかもしれないけど。さいきん世間では目に見えて暴力の圧倒的な強さが示される。暴力的な奴らがのさばる世は世紀末、新時代が始まったばかりだというのに。わたしたちの大切なものってなんだ?そういう繊細を持つことに疲れている。わたしだって権力や大金を持ちたいよ、それがわたしの弱さや柔らかさを守ることに繋がるのは間違いないので。わたしは変わらず世界を変える、と吐き出す超歌手の言葉と、その地平の果てなさが頭を過ぎる。今の彼女の表現はもうしばらくわたしの繊細にあまり響きはしないけど時代や戦場には合っていると思うしとっても正義だとも思う。し、それが自分が時代に置いていかれていることの証明でもあるように感じて胸が割れそう。みな当たり前のように愛を語るが、わたしはずっと本能的にも理性的にも概念的にも論理的にも理解できていない。何よりも大切なものはよく愛だという風に聞くが、愛というものを信じておかないとなかなか生きづらいだけだと思うし、自分にとって都合のよかったものを各々そう呼んでいるだけだと思う。それはまったく悪いことではなくて、ただわたしにとって愛と呼んでいいくらい都合のいいものが見つかっていないというだけ、なんだと思う。ただ問題は、それだけで自分が皆に出来ていることが出来ない、出来損ないの存在であるように感じてしまうということ。この身体、本当に気持ちが悪いな。暇ができると鬱になってしまう、ということは逆に忙しいときはそれを忘れられているだけで、忘れることが生きていくことだという証明になっているみたいで、わたしが生きて大切にしてきたこと全部意味なかったみたいでそれはそれでどちらにしろ気分が悪いな。わたしの好きな人たちが平穏であったり幸福であったり光に包まれていてほしいみたいな気持ちが愛だとしたら、まあまあ愛に溢れている人間なんだと思うんだけどな、心は。身体や存在は知らない。