夜、液体、流れ込む

あ、純度の高い死にたみは贅肉で淀みまくった脳に対してやってくる。夜ってやっぱり液体だし、過去ってやっぱり潮流。昔すごくすごく好きな人に好きなタイプを訊いたら「知らない世界に連れてってくれる人」って言ってて、知らない世界を提供し続けられる自信ねえ〜って思ったこと、よく思い出す。けっこう面白がられる人間だし、すぐ飽きられる思い出がある。底の浅さを必死に隠して生きてる。そういえば愚かさをずっと愛してくれると言った人はそのこと覚えてないし、おれだけ永遠に忘れないから入り口も出口もない最初から牢獄のような感情です。結婚しておんなじ苗字になったことが、運命みたいだし完全に分かたれた世界線の出来事みたいでなんだかおかしい。事件みたいなこと沢山あったなあ、これまで。ちょっとしたこと一つ一つが大事件で、あなたに会えたことあなたに会えたことあなたに会えたこと、ひとつひとつの出会いも結構まあまあ事件だと思っている。10代後半から20代前半にかけて、トラウマのような地獄のような白昼夢のような桃源郷のような出来事がかなりあって、もう結構経つのに未だにそれなりの鮮度をもって記憶に起こってくるのだけど、それらともう二度と出会わないのだとしたら不思議な気分になる。こんなに鮮明なことが二度と起こらないということ。この世界に生きている人間に対して生々しい感情を抱いているというのに二度と会えないだろうことが不思議だ。二度と会わん人は死んでるのと同じかも知れんし、でもやっぱりちょっと違う。祈りのような感情を持つとして、その宛先が現世か常世かというのは、やっぱり違うのです。こうして思い浮くままに言葉を並べていたら少し落ち着いてきた。言葉ってなんだ。

明くる

個であるということ、社会という場に生きているがわたしは個である。今日は最高の一日だったんだけど、絶望的感情を与えられる側面もあったりしていて目が眩むようだった。わたしはわたしを人間で居させてくれるすべての人に祈りやいたわりや優しさを持っていたいとおもう、そういう人たちが好きなものにも理解を示したいし、もっと良さを知りたい。あなたが社会的な立場でどうかなんてことは関係なく、たとえば殺人をしたって事情を聞きます。そういう光がある。と同時に、社会という足場の上に立っているという無属性の事実に対する恐怖もあって、わたしが明日カスになったら全て失うかもしれない。個であることと社会というフワリとした概念に対する視点が交差して目が眩むようだった。でも考えても仕方ないこともあって、それは諦めとかではなく、いつもただ今日を生きるしかないということだから。自分が良くなると信じて、自分が良くなるはずの方向を向いて地を踏みしめることしかいつだって出来ない。来週も遊びます。沢山の人に会う!沢山の人に会ってきて、悲しすぎる苦しすぎる出会いや別れや分断を知ってきたけど、おれは好きな人がかなり沢山いる。信じてきた結果だ。服のセンスがバチバチの子に選んでもらったシャツを買った。あけたばかりのピアスも色々変えたい。魔法陣みたいなカレーも食べた。金は減ってく!無職だから!!!でもまあそこそこなんとかなる程度にやっていくと思う。不安はいつもあるよ〜わたしだって。でも全部大丈夫だとも思っている。それはわたしだけでなく、あなたたちもそうだ。というかわたしなんかより確実にあなたたちの方が大丈夫。全部大丈夫。

光る百年

書こうと思ったことがあったが少し置いておいたばかりに忘れてしまった。苛立つ。全部タイミングなんだとしたら生きるの向いていなさすぎる。タイミングを掴むには瞬発力が必要で、いつだって後から気付くことが多いぼくにはそういう力が無い。シャーマンキングが再アニメ化するらしい。人生でいちばんハマったマンガ作品。愛って何か考えてきて今もなおあまりよくわかっていないが、シャーマンキングの19巻は愛だった気がする。何度も読んだある日20才くらいの時に衝撃を受けた記憶がある。愛ってもしかしてこれかもしれない、そう思った。最近、敬愛するハヌマーンの音源がサブスクリプションサービスにて解禁され、これまた人生でいちばんハマったゲームであるロックマンDASHの続編について、クラウドファンディングについてのツイートを見かけた。 奇跡みたいなラッキーがあったり無かったりして、世界はおれのために色々と用意してるんじゃないかと思うことがあるが、そう思ってる人は他にも居るんだろうな。でも相対評価でなく絶対評価でおれの人生は間違いなくおれのためにあって、おれの自我はおれにだけあって、おれの出会いはおれだけのものなのだ。自分が何のために生まれたか、これは人生一桁の時からずっと考えている。なんて思想の強いガキだったんだろう。おれは思い込みが強い自覚があるが、半分くらいは思い込みでなく真実だと思ってる、内緒だけど。あなたと出会ったのは運命だったと思う、そう伝えてきた人たちが何人か居たけどそれは本当だよ。いくつになっても知らない出会いがほしい。色んなところへ行きたい。色々なものを知りたい。そうじゃないと耐えられないよ。強い光を信じてる。きっとおれはいつか光を掴む、そういう根拠のない自信や確信を運命と呼ぶのかもしれない。まあ全然その辺で野垂れ死ぬかもしれないんだけどね。28才無職声優志望の元バンドマン。現状の字面だけ見るとなかなかの地雷だが、おれの光をおれは知ってるし、他にも知ってる人が多分いる。とりあえず寝ろ、話はそれからだ。

泥の器

深夜4時、沈黙が飽和して騒々しくなってくる時間帯に少しだけ一人であることを思い出す。サーキュレーターが冷やす頭の先から脳があって脊椎を通って肉肉肉、腰の先に二つの長い骨とその先に床と重力があってああ、全身があるのだとゆっくり考えるのはだいたいいつもこのくらいの時間で、眠りについて朝になるとそういったことはもうすっかり忘れて光が始まってしまうのだった。近々、体調が頗る悪く、体調が悪いと精神まで浮腫んでくるもので、泥の容れ物に魂が入っているような感覚で日々を流していた。大好きなハヌマーンサブスクリプションサービスでの音源配信を始めたので少し沸いたりなどした。ハヌマーンの自分の中での特別性を出会いと共に振り返ってみたが文字にしてみると自分の中の特別性があまり輝いていないような感じがして具合が少し悪くなってしまった。形の無いものを固定化して外に出すのは難しいと久しぶりに感じた。久しぶりに感じたということは久しぶりにそれを熱心におこなったということで、それが最も苦しいことであったということを思い出す。わたしがわたしであることと、わたしの中に何かが生まれること、そしてそれが形を成して脳や身体の外に生み出されること、そしてそれがどのように扱われるか、全て別々であるということ。命は限りあるのだということ。暮らしていくということ。暮らすということは身体という乗り物で時の流れの中を運んでいくもののような感覚をおぼえる。わたしは生きる道をいつも川のように思い浮かぶ。流されるように生きたり泳ぐように生きたり、水底に足を踏みしめて歩くように生きたり、それぞれだ。泳ぐように生きるのに憧れる。このブログはもう5年くらいやっているので昔のことを読み返すと面白かったりする。知らない自分がそこにいて、でもたしかにそれを知っている。不思議な感覚だ。続けるのが苦手だけれど続けておいてよかった。明日はどんな日になるだろう。どんな日にしよう。いいことが起こらない気がするけど、そんな日にいいことが起こったりもする。考えても仕方のないことは置いておいて、やるべきことをやる。今も勉強中だけど、いつまで勉強するのか。成長しないって約束ができる眩しさよ。成長してくれ。

世界の中心

誰かへの強い感謝の念だけが器を支配するときは依存と紙一重だということを自覚している。わたしは誰にも触れられないわたしだけのものを大事にしたくて、その究極は過去であり思い出であり過ぎ去ったわたしの感情なので、長いあいだ感傷に強い執着を持っていたのではないかと思い至った。忘れたいことなんて沢山あるし何一つ無い、それはなぜかというと記憶の好き嫌いよりも誰にも触れられないものを持っているかの方がきっとわたしにとって重要だからだ。でもそれとは別に持ってて苦しいものは忘れたいという感情はあるし、少し考えるだけで脳のキャパシティがオーバーフローしそう。これからのことを考えてみてもこれから何が起こるかどうなるか想像がつかない。そうなると今しか無いんだけど、今しか無いが行き着く先はやるべきだと思うことを永遠にやる機械になることなのでそれはそれでまあまあしんどい。そうなると思考は遠回りしながら結局はやりたいことをただやるということが健全ということになるが、そもそもやりたいことってなんだ?という新たな思考のルートと、怠惰が紙一重で耳横を通り過ぎていくため、この身体は何も無い白い空間にボロキレのように放り投げられるしかなくなるのである。みんな安心や安全や安泰や健康を本能的に捉えているように見える、見えるだけかもしれないけど。さいきん世間では目に見えて暴力の圧倒的な強さが示される。暴力的な奴らがのさばる世は世紀末、新時代が始まったばかりだというのに。わたしたちの大切なものってなんだ?そういう繊細を持つことに疲れている。わたしだって権力や大金を持ちたいよ、それがわたしの弱さや柔らかさを守ることに繋がるのは間違いないので。わたしは変わらず世界を変える、と吐き出す超歌手の言葉と、その地平の果てなさが頭を過ぎる。今の彼女の表現はもうしばらくわたしの繊細にあまり響きはしないけど時代や戦場には合っていると思うしとっても正義だとも思う。し、それが自分が時代に置いていかれていることの証明でもあるように感じて胸が割れそう。みな当たり前のように愛を語るが、わたしはずっと本能的にも理性的にも概念的にも論理的にも理解できていない。何よりも大切なものはよく愛だという風に聞くが、愛というものを信じておかないとなかなか生きづらいだけだと思うし、自分にとって都合のよかったものを各々そう呼んでいるだけだと思う。それはまったく悪いことではなくて、ただわたしにとって愛と呼んでいいくらい都合のいいものが見つかっていないというだけ、なんだと思う。ただ問題は、それだけで自分が皆に出来ていることが出来ない、出来損ないの存在であるように感じてしまうということ。この身体、本当に気持ちが悪いな。暇ができると鬱になってしまう、ということは逆に忙しいときはそれを忘れられているだけで、忘れることが生きていくことだという証明になっているみたいで、わたしが生きて大切にしてきたこと全部意味なかったみたいでそれはそれでどちらにしろ気分が悪いな。わたしの好きな人たちが平穏であったり幸福であったり光に包まれていてほしいみたいな気持ちが愛だとしたら、まあまあ愛に溢れている人間なんだと思うんだけどな、心は。身体や存在は知らない。

蒼い蜘蛛、透明だった瞬間にわたしは

映画を観た、わたしが昔つくった曲を主題歌に使ってくれた映画を観た。前に監督の子のブログを偶然見つけたとき、ダメ元で連絡をくれたと書いてあった。ダメ元どころか、断る理由なんてわたしには無いんだけど、とても嬉しかった。わたしは、特にこの曲については、わたしだけのために書いている。わたしのために書いた曲が誰かの心に刺さって、そうして新しい作品が生まれたということ、こんなに嬉しいことなんてない。こんな感覚を世の中の何人が感じて死ねるんだろう。映画は綺麗だったんだけど、熱量で映像の端がザワついてるように見えた。生きるを詰め込んでいる感じがして、だらしないわたしの身体と心と暮らしが恥ずかしくなるくらい。素敵な人の残滓を分けてもらったり、希望の轍を踏んで生きているといつも思ってしまう。でもすぐ死にたくなる生き物が前を向いて生きていけるのはいつだって誰かのおかげだ。それは直接的でなくなったって、誰かが作ったものを観たり聴いたり食べたりしながら生きていく。わたしはわたしが貰っているものについては自覚できるけれど、わたしが誰かにあげられているかもしれないものは目に見えないし感じられないから、自己肯定感が低くて困るなぁ。誰かを傷つけたときはすぐわかるのに、なんなんだろう。何かを残したと思えるのは形になった時だけだから、そうだな、今日は曲作りを進めよう。

暗日

先日、虹走さんの初恋を壊された話を読んだ。何の気なしに見かけたので軽い気持ちで読み始めたら全1042ページ一気に読み進めてしまった。わたしは世代の割にインターネット文化への参入がかなり遅かったのでチャットとか掲示板への投稿をしたことはないんだけど、ここまで実名顔出しのユーザが増えてくる以前の古のツイッターでの自分の体験などがかなりリンクして、色々と響いたり思い起こされる部分がかなりあった。ほとんど実話とのことで、色々と壮絶な内容もあるので気が重たくなるかも知れませんが、とてもオススメです。

https://twitter.com/nijibashiri/status/990912549032943616?s=21

 

しばらく毎日日記を書いたり毎日歌を歌ったりしてたんだけど気持ち悪くなってしまった。自分から発せられる歌も文章もつまんないし、自分はつまんない生き物だという感覚はいつもちょいちょいやってくる。友達は大好きだけど他人に依存はしたくない。毎日生きてるって思って暮らしたい。意味のないことはしたくないけど意味があったかどうかはいつだって未来だけが教えてくれる。明日は明るい日って書く。明日はきっと素敵になるよね〜ハム太郎