小雨が燦々と降る夜はエモい

思うままに綴る詩のような日記

自由と地獄と永遠

12月19日。先日の忘年会は非常に楽しかった。年々、学生の頃より社会に身の置き所の多くを持つ立場になってからの方が楽しいと感じるような気がする。自分の意思で自分の持ち物を使用するということ。それはお金だとかもそうだし、暮らしだとか、自分で選んだものを買い、選んだ場所へ行き、選んだ経験を得て、選んだ人に会うこと。取捨選択こそがセンスだ、これはずっと前から言っている。センスによって取捨選択をし、取捨選択をするからセンスが再帰的に形作られていく。つまりは生きるということだ。人として、生きるということ。選ぶから選ばれていく。選んだから、縁や運命に引っ張られていく。この歳になってずっと忘れたくないと思うものがこんなに増えるなんて思ってなかった。本当に楽しかった。企画のナツイちゃん、本当にありがとう〜。はじめましてのユウちゃんも本当にありがとう〜。

 

さっき哲学の女と美味い酒を飲んでいたが口論になる。今年最後のいちばん不愉快な感情だったな。おれが生まれて生きて息づいてきたことを失礼だなんだと罵られた。おれの百年を言葉で括って愛で罵ろうとは、なんて薄い膜なのだろうと思ったら目の前が真っ暗になった。外側の皮膚は生きていく上で固くなっていってしまった分、内側から刺されることに目が醒めてしまう。別に怒ってないから、不愉快という結果だけが単体としてそこにあった。不愉快と怒らないが同時にある事なんて起こり得るんだと思った。一晩経った今はちょっとだけ嬉しい。よく真剣にちゃんと好き放題言ってくれた。不愉快と怒らないと嬉しいが両立している。

例えばの話、恋人が居てもその他とセックスが出来てしまう。それを自由と呼べるかどうかは自由にあかるくないのでおれにはわからないが、出来てしまうという選択が存在する事それ自体がおれには我慢ならなかったのだ。永遠と凍結が欲しい。永遠は儚さで、人間には身体と連続性が続いていくと思うと、帰りの道で死にたくなった。ネガティヴで安易な死への傾倒ではなく、身体が邪魔すぎるから死というファクターを置きたいと思った。それと死は圧倒的な事実できっとこの生命を吹き飛ばしてしまうから、机上の空論ばかりのおれにも丁度いいと思った。空気になりたい。意思のある概念になって身体性も時間性も失えば、うつくしいもののそばにずっと居られ続けるのにとずっと思っている。矛盾している。人は矛盾している。おれには身体があるから、会いたい人に会える自由があるし、会いたい人にあう永遠がない。