こわい

ここ数週間、人にこわいとよく言われる。素晴らしいことだ、だってぼくもぼくが怖いんだ、よくわかったね、見ててくれてありがとう、っていうなんかもうこの感じも狂ってるみたいでこわい。こわいってなんだろう。調べてみたら概ね、悪いことが起こりそうで不安な気持ち、みたいな風に出てきた。ぼくが人に聞いた話では、未知も恐怖に繋がるらしい。未知、なるほど。というか既知のものなどあるのだろうか、ありとあらゆるものが本当は未知のはずなのに。安心とはなんだろう。いきることは思い込みの連続だとしたら、想像した途端に地面が消えてフワリと浮いた。さいきんまばたきをした瞬間に知らない場所に立っているような気持ちになることが多かった。ぼくは心に目がついていないので、自分のことが一番よくわからない。正確に言うと、自分のことが一番わかった気になれない。自分しか居ないことによく飽きないね、というようなことを言われたことがあるのを思い出した。一瞬一瞬で変わっていくから、終われないだけだよ。ひとつ終わらないと、終わったと信じられないと次へ進められないの、有名な病気なんじゃないかと思う。

話がやや変わるが怖いゲームが好きだ。せっかく新しいバイオハザードを買ったのに、怖いのが苦手な人ばかりで一緒にやってもらえない。なんで好きなの?と訊かれると、刺激バカだから、と答える。ドキドキしたい、ワクワクしたい。というわけでもなさそうだ。心が上にも下にも大きく動くのが好きなんだと思う。大きく動くことだけが目的なら、幸せより悲しみの方がコスパがよい。心を器とすると、割れる直前まで注ぎ込んで、息継ぎをするその一瞬にしがみつく。息苦しさを上書きする、より大きな気持ちよさを重ねていく。そうすると、刺激に騙されつづけて見たくないものを見なくて済む。あの頃を生きていくためには仕方がなかったと思う。わざわざ不幸になる気なんて今更もう無いのだけれど、そういうやり方がいちばん身に馴染んでいて、こわい。でもぼくは、それ自体が悪いことだとは思っていない。人は皆うまれた瞬間から死に向かってスタートを切っている。壊れるのが先か、命が尽きるのが先かという話だ。健康を選ばない、安定を選ばない生活するならせめていま死んでもいいと思えるような毎日を過ごさなきゃいけないよね、と友達の工藤ちゃんが言っていて腑に落ちた。いつ死んでも仕方ないのだとしたら、問題は中途半端なことだ。おれはこわい。簡単に生きていけることがこわい。なにかをこわしてしまうことができる自由がこわい。こわくなくなってしまうことが、こわい。

とがる

とがってるかなりね、わかるだろ

youtu.be

 

2017年最高のフレーズじゃないか?

 

 

忘れるということ。覚えるということ。思い出すということ、知るということ。馴染むということ剥がれるということ。

慣れると飽きるは違うぜ、というフレーズを知ったのはおそらく2010年のことだった。生きるのには、水のような覚悟が要る。前を向くというのは切り捨てるということだったのだろうか。おれは受け入れることだと思った。言葉はいつだって後付けなのに、そう何度も繰り返してきたおれ自身がいちばんカタいからスッポリと抜け落ちてしまう。言葉は言葉だから、流動する人の形にはハマらない、だからおれは、と付け加えた。あいつにとっては知らん。

さて、話を戻すと受け入れるということ。切り捨てるにも受け入れるにも主体が必要だ。だから切り捨てるには冷徹な刃が要るし、受け入れるには器が要る。身体には目がある。しかし心には目がない。なれば他人の心より自分のそれの方がわからないのは自然なことだ。ここでいう器とは心の話なので、見えないものを定めるのは難しい。難しいことをこなすには集中以上に馴染むことが大切だと思う、習慣は魔物だと太宰治も言っていた。逆に言えば繰り返してきたことほど高い強度でおこなうことができる。いつか呼吸をするように生きたい。歩くように生きたい。泳ぐように生きたい。そのためにやるべきことをやる。人間になる。人間になりたい。おれは人間になりたい。

ねえ、永遠ってあると思う?きっと大切なことは永遠があるかどうかでなく、永遠だと思って生きることだと思ったよ。とがるってきっとそういうことだ。とがるってきっと、そういうことなんだ。

あい しんく あんしん

あいするにはからだとこころがいる、おれにはこころがない。それはながれるみずのさきにうつわがないように。うまれたきせつのなまえをしらないように。いたみをいたみとしること。あなたとおなじけがをしても、おなじいたみにはならないということ。からだがからだであるということ。ひとつにはならないということ。しらない。というより、しっているが、ない。おれにはこころがない。花火はただの火だった。星はただの光だった。おれにはからだがある。爪を噛む。そういう匂いがする。あんしんをしらないということであんしんをしたい。おれには、こころが。あいを、するには。

或る街の群青

455件あるiPhoneのメモ帳を見返していたら2013年8月5日に「髪や爪が伸びるのは現実に帰るため」と書いてあった。覚えていない。2013年10月1日に「秘密は美しい だらしなくないから それは演劇に似ている」と書いてあった。覚えていない。2013年10月7日に「感情がひきつけを起こしていると言われたのでその揺れ幅に存在と名前を付けて今日も生きます」と書いてあった。これは覚えてる。2013年12月11日「偽物ばかりに興味があるから本当になれない感情」。2014年3月19日「血を飲むことを許されない吸血鬼みたいに足りないものがなんだったのか忘れていくんだろう」。2014年6月11日「宇宙につながらなくなった 赤信号」。2014年7月20日「いろんな人の優しさを腐らせてぼくはどこへいくんだ」。2014年7月30日「きれいごとになりたい」。2014年8月17日「愛は必ず勝つけどさ 愛がない人はどうするの しぬの」

溜息は春の風に癒されて

山手線でpegmap聴いてたら疲れた身体に沁みすぎてほとんど泣いてしまった。pegmapはどうしてもpegmapしか出来なかったんだろうなっていう方向に振り切っているから尊い。そういうものに最近すくわれる、そのままでいいと言ってもらえてるような気がして。ぜんぜん売れ線じゃなかったけど。売れたかったのかな。売れたかったのかもしれないな。解散前に出したアルバムは、それまでに比べて何となく聴きやすくなっていた気がする。I know 才能 無え って歌詞が愛の才能無えに聴こえる。愛の才能ないの 今も勉強中よ SOUL、これは川本真琴ちゃんのデビュー曲の歌詞だ。愛の才能という言葉。愛に正しさなんて無いから直感に寄るしかない、その恐ろしさ。人の数だけ無限にある感情の機敏を「愛」だの「恋」だの、一文字で表すということ。そんなものを誰かと共有しようとすること。心理学的な類のものに寄っては、人の愛し方の如何は環境によって左右されるのかもしれない(学が無いからわかんないけど、そんな単純なものでは無いのかもしれないけど)。ではマトモな家庭に生まれ、マトモに育てられたというのに、上手くできないのはどうしたらいいのだろう。愛の才能が無い。壊れるほど愛してて三分の一も伝わらないの、実はちょうどいいんじゃないか???愛の才能がある。そんなことボーッと考えていた。さいきん考えてた。考えてたら色々思い出して泣いてた。小生は、ずっとさびしい重い殻、剥がれません。恐山行ってみてえ〜。面倒なことになった。生まれてからずっと。

みんな宇宙だ

何かを治すために何かを作るのなら、何かを壊すために何かを作ることも最早同じことだ、この身体という器はひび割れている、日々割れている。うつくしさは琴線を揺らし、醜さはマグマを煮立たせる。毎日幸せを詰め込んでパンクしそうだから、弾けなくちゃならない。完成と未完成、感性と悲観性、黒い窓ガラス、あの日の夕焼け。口づけの甘さひとつとっても全て違う宇宙に紐解かれるから、ちゃんと笑ったり泣いたりしたい。何にもなりたくないならこれから何にでもなれるね、って言ってもらった。みんな光を秘めている。みんな宇宙だ。

春のせい

好きな季節は何?最近よく人に尋ねる、今のところ春と秋が人気、夏と冬が不人気。ぼくは夏が好き。工藤ちゃんは冬が好きって言ってた。春は何にも季節のせいに出来ないから嫌いだって言ってた。ぼくは東京に来てから春が好きになった。四月になったら本当に桜って咲くんだね、桜の花びらが散るのってあんなに流れていくようなんだね。北の国での四月は始まりと終わりがグズグズに混じり合う、くすんだ季節だった。ぼくはこれまでなんにも季節のせいにしたことがなかった。そんな発想を持ったことがなかった。この街の人たちは環境の変化に敏感だ。それは周囲のこともそうだし、自分の身体や心のことについても。季節や気圧や出会いと別れ、自分の歩む道や歩んできた道を結びつける。生きることに精一杯だ。ぼくも春のせいにして少しは楽しくなれる。桜が咲いた。また四月が来たよ。