音楽を聴くのにも才能が要る/要らない

音楽を好きということに対して天才的な友達がいる。その子は別に何も作ってないんだけど本当に音楽を好きということに対して天才で、どれくらい天才かというと音楽の聴き方にも才能ってあったんだなって自然に思ってしまうくらい天才。音楽の聴き方っていっても優れた評論家のように正しく批評が出来るとかそういった類のものではなく、単純に「音楽を聴く」という行為について優れ過ぎている。ぼくらは目で映像を捉え耳で音を捉える。捉えた信号は脳に届き、感じることができる、その過程。そんな過程に決まりなどなかったかのように、彼女は全部で、あるいは一部で、自由に、あるいは不自由に音楽を聴く。曖昧でわかりづらい例えだったかも知れないが仕方がない、もはや言葉で表現できないもの、他に言いようがないものを「天才」と呼んでいる。その子と音楽の話をしていると、音楽が素晴らしいものだったってことを自然に思い出せるので本当に楽しい。思い出せるというか、そこで初めて忘れていたことに気付くという感じだ。音楽を聴く才能は音楽を作る才能よりも世の中の役に立たないかも知れないけれど、世の中の役に立たない才能は世の中の役に立つ才能より評価されないかも知れないけれど、どっちもおんなじ才能だ。ぼくにはどうにもできないけれど、彼女がこれから先もずっともっと音楽を楽しんで生きられたなら、本当に嬉しいし愛おしい。

舟出

離れ離れになってもぼくらはぼくらのままで生きていくし、違う国で同じ朝の陽を待つ。舟出という曲を作った、静かで地味な曲だ。彼女は「別れとは川の対岸にいるようなものだ」と言っていた。ぼくにはその意味が本当のところではわからなかったから、何も掬い取れずに舟が遠ざかっていくのを見ていることしかできない。呼吸困難の夜に流れる星を見上げる。思い出は光砂となって海へと流れていく。もう何も言うことはない、祝福も呪いもない、感傷も要らない、誰にもわからないし何処にも行けないことについて、本当に何も言えることなんてないのだ。

一つになれたとしても、せめて二つだけでいようよ

みんな見えないものを信じている、みんなが思っているよりそれはきっとそうだ、例えば言葉。言葉は目に見えるようでいて、その奥にある心は目に見えないものだし、声だってただの振動だ。その振動を運良く耳が捉えられたとしても、それを脳が正しく認識しているかなんてこと、本当のところはわからない。わからないなりにみんな自分が見ているものを信じ、見えないものを信じ、近しい景色を見て、近しいものを信じている人を探しているのかもしれない。そのくせみんなありもしないものをありもしないものだと思っている。故人達は心をなぜ頭でなく胸としたのか。なぜ世界中、違う地域の違う人類達が皆同様に墓という概念を持ち、霊を信じたのか。話が少し脱線した。ぼくらは見えないものを信じている。同じものを見ていた人はもう居ない。同じものを信じていた人にはもう会えない。そして多分、ぼくらはどちらもそれを多かれ少なかれ信じている、もし同じものを見て、同じものを信じていたのだとしたら。だから出会いと別れは対比されるべきではなく、恐らく同じ性質のものなのだろう。人だからどっちにしろ悲しいし寂しいけど。

人は孤独だ。でもそれは諦めの言葉ではない。一つになれないならせめて二つだけでいるのは正しいと思うし、一つになれたとしても、本当に一つになるのがいいのかどうか、探り合いながら生きていくのが素敵だと思う。ぼくは別に恋に生きる人を馬鹿にはしない。さいきん色んな友達の恋愛観に触れることがあって、少し考えた。これは別に誰にもわかんなくていい。

人間でいうと

「全肯定なんて何にも見てないし選んでないのと一緒だ」って友達が言っていたので、ここ数ヶ月ずっと頭の片隅で考えていたけどやっと消化できてきた気がする、日本語は日本語でしかないので、自分語に変換できるようになるまで無限に考えてしまう。好きな人が好きだけどみんな人に言えないことや悪いことをしているのだとおもう、そのへんを真っさらな更地にして肯定するのは確かに何にも言ってないのと同じかもしれない。身内とか友人とか殺されてもその人のことを肯定できるなら本物かもしれないけれど、そんなことは大概不可能だとおもう。もし肯定できるなら、それはそれに値するだけの理由がきっとあるので、どちらにせよその人のことを深く深くまで見据えて知っていなければ出来ないことだと思う。

もう一度言うけれど好きな人が好きだ、何にも知らなくたって好きになったりもする、そういう場合は人格以外のところに理由があったりするので、外から見たら全肯定のように見えるかもしれない。例えば美術品。美術品は人格を持たないけれど、その様相の美しさに人は何かを想い、ともすれば創り手の人格にまで意識と視線が触れることもあるかもしれない。造形全体のバランスに心が動く、そういった場合は、悪人にだってその美しさを覚え、肯定することもあるだろう。

そういうことだから、美醜だとか善悪だとかはあまり関係がない。ぼくはぼくの価値観で人を好きになる、そんな当たり前のことを1から理解するのに数ヶ月かかってしまった。とにかく燃費が悪いな、500年は生きたい。

 

日常は手作り

余計なものがあるかないか、余計なものかどうかで生きている、昨日はササクレフェスだった、昨年と同じくボランティアスタッフ。朝時点で軽い二日酔いだったので応募しなきゃよかった〜とか思ってたけどやっぱり最高だった、情熱で人が動くことは気持ちがいい!情熱で人と繋がっていきたい、依存ではない関係性には存在単体の他に依り代があるんだと思う、だからこそ厳しくもある。もっと面白くなってしまわないと面白い人達に出会えない。みんな面白くて最高だな、もちろん生きてくのは大変なんだけれど。それはともかくササクレフェス、っていうか術の穴の人たち?みんな音楽が好きなんだな〜って思う、打ち上げでDOTAMAさんを中心としてみんな好きな音楽について熱弁してるのを眺めていて人生が最高の気分になった!人はいつか死ぬから最悪でも幸せでいなくちゃならない、何かの勝ち負けでなくただ生きるように生きられないこと自体が悔しい、ふざけやがって

浅ましいので人が死ぬとシンプルに悲しい、会ったことがなくても関係がなくても悲しい、センチメンタルになって日記に書いちゃうくらいに浅ましい、やだな、浅ましくてもなんだっていいけど誰も死なないで欲しい、誰かが死を選んだり、死に選ばれたりすることはたいてい誰かの手が届くべくもないところにあるけれど、ぼくの手でもし救えるようなところにそれがあったなら、どこまで関われるだろう、そういう時にこそ身は軽くなくちゃいけない、そういう時に身を軽くあるために、常に身を軽くしておかなくちゃいけない、はあお金ほしいな、会いたい時に会いたい人にすぐ会いに行けることがお金のいちばん良い使い方だと思う、そのためには余裕がなくちゃいけない、全員救いたい、本当は誰も誰にも救ったり救われたりする必要がないことが理想なのに、誰かが不幸になることを望んでしまっている、浅ましいこと限りない、人間だ、浅々の人間だ、自分の手の届かないところでそういう風に物事が動いて欲しい、もし例えばぼくが死んで世界中の人間が救われるとしたら事故で死にたい、ぼくの意思なんて関係なく全員救いたい、優しさってそういう覚悟だと思っている、おれは優しくない、優しくなれない、少なくともこうして自分に酔っているうちは

むかし「振れ幅が存在の大きさ」だって友達が言ってくれたから、おおきく震えるようにしている、何度も壊れてきた、壊してきた、人は機械と違うので壊れても勝手に直るし強くなるからすごい、絶対に死ななければいいだけだからどこにだって行けちゃうし何だって出来ちゃう、人間って最悪だ〜〜〜最高すぎる。

さよごとげんき?ゆっちゃんげんき?めんこちには最近会ってないな会いたいな、ランディカさんにも会いたい、ランディカさんは前々前世から絶対仲良かった、たぶん、冬も夏も似合うからあの人は妖精だ、はいこれランディカさんのつくる音楽です、聴いて↓

https://m.youtube.com/watch?v=bvXsmt4MLqo

https://m.youtube.com/watch?v=k7S0VUtnkzo

 

今夜は非常に騒がしい、なんとなく夜自体がザワザワとしている感じがある、SNS覗いてみてもみんな変に元気だし、なんか変な感じだ〜〜〜ぼくのテンションも変だし、と思ったら後輩の女の子「月がでかいからです」それじゃん!絶対それが理由じゃん、地球も生き物だなって思った、意味わかんないかな、わかるよ絶対、絶対なんて絶対ないから絶対あるんだ