地平の果てまで

さよなら。さようなら。左様なら。そうならねばならぬのら、別れましょう。この国の別れ際の言葉は、冷たい覚悟と共にある。この言葉を想う時、二度と会わないだろうと思われるひとのことを思い出して、意識が天国へ逝きかける。その全てが、左様ならば、というものだったと思う。ああ、あらゆるものは水が高きから低きへ落ちるが如く、自然に、収まりのよいところへ収まるものなのだなあ。悲しい。悲しい悲しい悲しい。おれが大事に思った誰かにとっておれは大事じゃなかったり、おれを大事に思う人のことをおれは大事じゃなかったりする。自然だ。水は燃やさないし火は凍らせない。自然だ。誰かが誰かであることを許すのなら、おれがおれであることが無くならないのなら、この惑星に空気はあるし、あなたに体温があるし、なのにこの感情はどこにもない。おれだけが知っている。どこにもないのに。そうか。おれしか知らないものが、この世には多すぎる。

春、燦々と散々

こないだ「春になったら何を始めるの?」って訊かれて、「そっか、春って何かを始める季節なんだ」と思った。すごい!本当にびっくりしてしまった。考えたこともない発想だったのに、空気のように自然に身に沁みた。何を始めようかな。タトゥーいれちゃおうかな、お花のやつ。ずっと考えてるんだけどちょっと怖いな。あとジムに通いたい!ぼくはだらしない性分だから、せめて身体くらいシュッとしてたい。春を想うと、頭の上の方がパーッと光っていくね。季節が巡るたび、季節のある国でよかったと思う。相変わらず季節に敏感に居たい、というくるりの歌詞、東京という曲にこの詞が入っているのはとてもよい。何度も書いた言った気がするけど、北海道には四季がないので、東京に来て初めて明確に季節を意識した。桜の季節に雪が溶け残っているのだ。四月に桜が咲いて、テレビの中の話じゃなく現実にそうなんだと思い、感動した。

 

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好きなもの、おれが好きだってことはきっと果てしないに決まってるんだから、いつか手の届かないところに行ってしまうんだろうなと思って勝手に悲しくなってしまうことがある。永遠とかさ、届かないじゃん。うつくしいものよりうつくしさそれ自体の方が好き、みたいな感じだ。物質世界だから届かないんだ、物質のままじゃ。むかし国語の試験で、ハチを叩き潰す時こそ力を入れなくてはならないのに、ハエを叩き潰す時は全力でいられて、ハチを潰す時は恐れて手加減してしまう、みたいな文章があった。近くにあったとしても気にすると届かなくなったりするんだ、歩き方を意識すると歩きづらくなってしまうように。遠くにあっても簡単に手に入るものだってあるのに。

 

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「この良さは自分にしかわからない」と思わせる作品が一流、みたいな話ってあるけど、これって人にもあると思った。「この街で俺以外 君のかわいさを知らない」的な。スピッツすごいね。おれがいちばん知ってるんだからな、って、思えば誰かを好きになった時、いつも思っていた。

あいのう、さいのう、ないのう

愛とは?みたいなことについてはおそらく10年とちょっとくらい考えているんだけどおれには引き出しがない、昨日ネットで「愛は<相手が自分に愛されても不快に思わないだろう・愛してもいいと思える>という前提の元におこなえる行為だから、まず自分を肯定できない人には他人を正しく愛することができません」的な旨の文を見かけて、そんなの当たり前じゃん、と思った。愛の才能。愛について思いを巡らす時、ややこしい数学の問題や、プログラムコードを読む時のような突っかかりとスムーズという概念への隔たりを感じる。無いんだろうなぁ、才能。誰かを褒める時は出来るだけ躊躇しないように普段からいつも心掛けているんだけど、逆にいうとおれにできる愛情表現ってそれだけなんだよな、引き出しがないってそういうこと。自分を肯定できていないからそこから先へ進めないんだろうなと思う。肯定とはおれにとってそれ以上ないくらい最上のものだ、自分が持ってないものを誰かに与えるということだから。その先へ進もうと欲を出せば、前後左右もわからない奔流に飲まれる。だから愛の在り方みたいなことについて考えられる人はすごいなぁって思う。それより先のことだもんな。愛とは?の先。在るということがまずあって、それをどう扱っていくかという話。そういう人でも悩んだりするんだろうけど、それでも多分ぼくには見えてないものが見えてるんだろうなとは思う。でもまあ絶対に諦めないんだけど、プログラムが読めなくても転職できるけど、愛に転職はないし。10年どころか20年かけて、思い出すのも忌々しいくらいの失敗を沢山して、考えて、少しづつマシになってきたとは思うから。感情と理性は相反するものだとずっと思ってきたんだけど、理性はブレーキじゃなくてハンドルみたいなものだって知ってから、理性というものに気を払い始めた。それがここ2年くらいの話。マシになるまであと8年くらいかなあ。8年後は34才か。恐ろしいことだらけだけど、それでも未来はきっとよくなっていると、迷いながらも口に出せるようになってきたから、よくなっていなくても、自分が本当に掴みたかった光を何かひとつくらい、掴んでいたらいいなあと思う。そう思えるようになったのも1人での話じゃないから、出会って何かをくれた人にはいつも泣きそうになるくらい感謝してる。

生存

春の嵐、ただでさえ風の強い千葉のはずれでは洗濯機の中のそれらの気分を味わった。暖かくなってきました、そちらの方はどうでしょうか。もうひとつの世界のぼく。穏やかに過ごせているでしょうか。調和のとれた大広間のようにやさしい冬の冷たさは懐かしく思うことはあれど、恋しく思うことはありません。ぼくはこちらでそう思えるもの達に出会いました。全てが必然のように思えてしまいます。これまでを振り返ろうとすると最初に浮かぶいくつかの大きな時点で、もしあちらを選んでいたら。あちらを選んでいなかったら。そんなものは本当にあるのでしょうか。あんなに緑色の夜をぼくは知らなかった。朝の似合う人、夜に近い人。1か0かではなく、全てを食べて、全てに飲まれて今、生きている。「運命ってあると思う?」この質問を何度も投げていた時期があって、あんなに納得する答えをくれる人がいるなんておれは知らなかった。絶対にありえないより外側の、この世界の枠組みが簡単に壊れたんだ。なめくじの色が本当はなめらかなミルク色で綺麗だと、知るより自然に知った。明日が来る。その次もきっと来る。触れられないけど消えないものが残念ながらあって、その切なさは正しい切なさなんだと思う。今を生きているなんて、なんて希望で、なんて残酷なんだろう。

こぎとえるごすむ/すまない

おれの愛は基本的に湧き出る泉を止めない止められないことだから水質の如何は問題ではないしデザインセンスがないな、基本的に人に届けるものだという感覚がない。友人の実存などしているだろうかという思想が胸を打った、ぼくはかつて実存など疑うべくもないことだと思っていたよ。在るか無いか、間違いなく在るとすればそれは在るのだ。だから愛と執着の違いみたいな話にはピンとこない。それは届けられた側が届けられた瞬間に名前をつけることで、生まれた瞬間にはどちらもただの存在だからだ。でもまあ生まれたからには美しい形で届けたいし心地良く受け取ってもらいたいよねということには異論無い。少し話はズレるがやさしくなりたい。超圧倒的完全無欠の優しさ星人になりたい。よかれと思ってやったことが裏目にでる、だとか、他人のためにやったことが実は自分のため、だとか。そういう愚かさ愛おしさなんて角が立たない程度にうまく排除して、誰かに意識されたり気を遣わせたりすることもせず、意識を身体の外側まで拡張して、客観的に全てを淀みなくコントロールできたい。というのは3日ほど前に考えていてブログの下書きから引用した話なのだけど多分10年とちょっとくらいやさしさについて考えていた。14才の夏から。さいきん「やさしい」って言ってもらえることが増えた。それはおれがそう言ってくれる素敵な人ばかり交友を持っているということだと思うが、もし本当にやさしくなれているとしたら10年くらいはあらゆることにかかるしやれることなんていくつもないなと思った。時間はきっとない。生き尽くすという文字列がぼくには空々しく響く。おれはいま何を見ている?目の前のことってなんだろう。こんなに存在しているのに、足は宙に浮いているようだ。

箱 箱箱

いとも簡単に死にたくなるが思念をボロ切れのようにして視界の端にかけて置いておけばとりあえず明日まで生き延ばせるから怠惰に生き永らえている。明日の光、記憶の中の星たち。雪に埋もれて泣き続けたような安心安全な破綻はこれからさき一生ないんだと思うとさみしいし、あの悲しみは茶番だったのかと思うと重みなんておれの身体が脆ければ脆いほどのしかかってきて、刺激が欲しけりゃ馬鹿になれと嘯くORANGE RANGEは確かに真理を歌っていたなどと思い至り、この構図がそもそも馬鹿らしくて嘲笑を零してみたりする。心の中で、帰りの電車の中で。茶番も茶番、何かを大事にしたいとか、誰かを大切にしたいとか。大きすぎる気持ちも身体と脳の箱の中でぐるぐるぐるぐる。脳神経と末梢神経は繋がっているけどおれの心と魂と世界は繋がっていない。空気になりたいし時間になりたいし概念になりたい。そう思える音楽があったけど今はもう無いから、人生第2期って感じだしそれが面白くなるかつまんなくなるかはおれ次第だっていうのも全部知ってる。いま持ってるもの・持ってたいものは全部とびっきり大切にしたいけど、大切にするのやり方は全部知らない。いびつさは角が多いから引っかかるし絹を引き裂く。背負いすぎてしまった借金はいつの間に破産してしまったのだろう。あなたと手を繋ぎたい。最後に残るものはそれだけだったとしたら。星になるよりはよっぽど醜いことだ。

願ってばかりの国

絶対に変わらないものを一生追い続ける。そう思っていた10代の頃、そんなものはないのだと幾度となく繰り返す挫折により今は自然に身に染みていく。だったら最低な気分の時にも生活は流れていくし、何に誠実にならなくたってその瞬間の気持ちをぼくだけが大事にする。そうしていくと体内に流れる時間と世界の進度がズレていき、取り返しのつかない破壊を生み出してしまうのだった。何かと比べてしか安心できないぼくは、いちばん綺麗なもののために他の部分を黒塗りするようなところがある。どんなに汚しても絶対に汚れない一箇所に純粋を垣間見て、安心をする。きづきあきらとサトウナンキの短編集の一節がやけにこびりついて剥がれない。本当を知るために本当を汚すあのさよなら。ずっと地に足がつかないのは泳いでいたからで、足が動かないのは底についているからだったのでしょうか。さかなのように生きたいと願ったあの日の夕暮れ、穏やかな時間。願ってばかりでいのちを消費していく。あんなに叫んだ黄昏、なのに今はここにいるということがたまらない。自分だけは絶対に居なくならないから、おとなしく祈りくらいは贈り続けられないものでしょうか。