夜はいつから夜だったのだろう、夜と名前がついた瞬間を知りたい、夜はいつ夜になるのだろう、18時くらい?時計がなかった時代に訪れる夜はどんな感触だったのだろう。というか区切りのない生活というのが想像つかないな。起きて狩猟などをし、そのうちに闇が訪れ、明るくなるまで眠るのか。そんな生活を想像してみる。四季に四季という名が付いていない時代の暮らし、風が通り暑くなり緑が失せ白い雪が降るのか、区切りも名前もなしに。ぼくらは朝9時から18時まで8時間働く生活。残業時間と休憩時間は別。26時頃には寝付いていないと次の日がしんどい。24時に日付が切り替わる。区切りばかりの暮らし。疑問を抱いたこともあまり無いかもしれないな、不思議だ。ぼくが考えそうなことだと思う。全てのものに始まりがあると思うと、非常に興味深い。人間が生まれ、人間が人間に人間と名前をつけた瞬間が歴史のどこかに間違いなくあったのだと思うと、近いような遠いような、不思議な距離感を想う。心理学者のユングが提唱した概念に「集合的無意識」というものがある。人間の意識が奥底で繋がっているということを示す概念だ。たとえば日本には「幽霊」という概念があり、遠く離れた国には「ghost」という概念がある。全く別の国の別の民族であるにも関わらず、同じような概念の発想に行き着く。日本に愛が生まれた時、異国にLOVEはあったのだろうか。生まれてから死ぬまで全てを知ることはできないなら、何故人には知識欲が存在するのか。生まれた意味、生きる意味、そして死んでいく意味。そんなの無いだなんて言われても、自然に考えてしまうこの身体が此処にある。自然に流れていく時間がある。ぼくたちはどこから来て、そしてどこへ行くのだろう。

愚痴

未来どころか過去にも追いつけないなら生きているとは言えない、もう、死んじゃった方がいいかな、と思う日が増えた。10代の頃の「耐えられない!!痛い!!!消したい消えたい死にたい!!!」みたいなのじゃなくて、「なんかもうやだな〜、こんな自分を抱えてやってくの疲れたな〜、たるいな〜」って感じ。手放しちゃっていいんじゃないかな、これ。10代の頃、自殺は愚かなことだと思っていた。何か耐えられないなら辞めたらいいし、何か合わないならどこかへ行けばいいし、死ぬ前に色々と試して、それでもどうしようもなかったら最後に選べばいいのに、と思っていた。でも生きる努力もそもそも面倒くさいんだよね。なんで逃げたりしなきゃいけないんだ。一歩も動きたくないのに。

 

ぼくはどうやら記憶力がいい、非常に。どうにもならなかったこと。うまくいかなかったこと。呪いのように全部覚えている。昨日のことのように思い出せる。生きる上で背負ってしまった傷、負えば負うほど増えていく。消えない。忘れられない。ほんとは優しさのつもりだったのにな。ほんとは愛のつもりだったのにな。そういうやつ。そういうやつが生きるほど増えていく。ならもう死にたいよ。どうせ死ぬなら誰かのためがいいな。自分が死ぬことで世界中が救われる、そういう魔法が欲しい。そんなものはない。愚痴。愚かで痴れている。

季節の中だけで終わるものは夏だけ、と昔インターネットで見かけた。春は来るし秋は冬へと変わるし、夏だけが終わるとされるらしい。夏は目に見えて熱く、明るく、眩しい季節だがぼくにはむしろ逆の感触をおぼえる。光が消える。熱が消える。思い出が過去になる。夏は喪う季節だ。熱にうなされ、白昼夢によろめき、幻を追う。死に近しい季節だ。実際はどうかわからないが、何かを失った記憶は、夏のことばかり思い出す。終わりを印象づける何かがあるのかもしれない。見えないものはある、見えないだけで。空気も音もあるのなら、黒い朝も白い夜もある。●●が好きだったマンガを読んだ、最後に会ったのはいつだろうと思う。二度と会えないのだとしたら、生きているのも死んでいるのもおんなじなのだろうか。夏には魔物が棲んでいる。気怠さと溌剌さが同居している。眩さにシの冷たさが隣り合っている。夏が終わってしまった。冷たくなる光、予感がなりを潜める。さみしさとさむさはどちらもさで始まる。さ、には青が住んでいる。生きてるだけでも素晴らしいはずなのに美しく生きなくてはと思ってしまう。もう半歩で積み木が崩れる。ぼくはもうどうなってもいい、そういうあの瞬間がまた欲しくなってしまう。あの日。散歩が好きだったことをふと思い出した。

せいかつ

何かを強く想うと心が硬くなってしまう、力を入れ過ぎると硬くなってしまうのは身体と同じかも知れない。何かを想った時にブログに残しておくのは面白い、後で見返すとまるで別人のようでもあり、何かを拾いなおすヒントにもなるかも知れないからだ。この二ヶ月くらいずっと作曲をしていて、週末は歌を録音する予定。飽きたら部屋を片付けよう。買う予定だったものを買いに行こう。美味しいものを食べよう。ところで自殺をするつもりの人は、死ぬ前に部屋を片付けることが多いと、むかし本で読んだ。最期に全てを綺麗に片付けてから死ぬらしい。死んでしまうつもりなら何でもできるそうだから、もう死んでやるって気持ちで、まずは出来ることからやろう。

あの島

美しさに想いを馳せられない時、自分は疲れているなあと思う。ぼくの敬愛するスガシカオはかつて「音楽を作る者は罪の意識を抱えていると思う」と佐野元春のザ・ソングライターズで言っていた。その後ミスチルの櫻井さんがゲストの回で「スガさんがそのようなことを言っていたがどう思うか」問われた時には笑ってはぐらかしていたから櫻井さんはそんなことなさそうだけど。罪の意識。何かに後ろめたいような気持ちはずっとある。14才の時に染み付いた思考の癖みたいなものだ。変わってしまうことを恐れていたけれどなんだかずっと自分の愚かさは消えない。自省こそが君みたいなところがあると言われたことを思い出して少し侘しいけれど、それなりに正しいとも思う。君の揺れ幅こそが存在だと言ってくれた妖精に会いたい、もう2年も前に1度会ったきりだ。彼の中ではぼくはずっと少年なんだろうと思う。彼の前ではきっと少年で居させてくれる。あの頃より歌は上手くなったんだ。いつか一緒に歌いたいな。

mamono

自分の中の魔物は自分で飼い慣らさなくてはいけない、わかっていたつもりだったんだけどな、何度も何度も繰り返す、何度も何度も。冷静で対等じゃなくては誠実ではないと強く思うから自分はいつだって不誠実だ、頭が固いから柔らかくあろうと頑なに頑なに自分に繰り返し唱え続ける、それってもう感情だから冷静さも柔らかさの欠片もない。人にどう見せるかを気にして人にどう見られるかを気にすることが出来ない。というかもっと深くどう思われるかに到達できない。傷付けてしまった人には許されたいしでも許すか許さないかは自由だから許されなくてもまあ仕方ないけど傷付けてきた人に優しさがあるなら許そうと思う。なんなら優しさがなくても、自分に対する優しさがなくても善いところが誰かにあれば許そうと思えてしまう。ぼくを殺そうとしてきた人に対して最初に思ったのは、この人優しいからぼくが死んでもほんとは救われないだろうな、死んであげることもできなくて申し訳ない、だった。恨んでる人なんてほんとは居ない。中学時代に酷い言葉をぶつけてきた川内くんも、同窓会で会った時に「昔おれのこと嫌いだったしょ?」って訊いたらドキッとした顔して「へ、や、そんなことないよ」ってヘラヘラしてた時にどんな気持ちも雲散霧消した。なんだそんなもんだったんだ、気にして損した。高校の時に毎日聞こえるように悪口を言ってきてぼくを叩き潰したギャルはその性格の悪さ故にクラスの殆どの人に嫌われていったけどそれでもみんなに聞こえる音量で「わたしめっちゃ嫌われてんだよねーだからめっちゃ居心地悪いのウケない?」っで他クラスのギャルに何のこともないように言ってたの見た時、どんなに嫌われても自分を貫けるのかっこいいなと思ってしまった。これは優しさではない。敵を作ると勝てなかった時に完璧に傷付いてしまうからこれは全部自分を守るためだ。敵の良いところを見つけてしまう。その反動か、気を許した人には当たりが強くなりがちになってしまう癖にも自分で気付いている。ここで言う当たりは非難などと言った攻撃の類もそうだし、愛情とかそういった類のものでもそうだ。だから最初仲良くなれても気を許したり大事になりすぎると傷つけるのが怖くなってうまくいかなくなってしまうことがよくある。呼吸は意識せず普段しているが意識するとなかなか上手くいかなくなるとか、そういった感じ。だから一生ひとり。いや、人は元々ずっとひとりなんだけど。そういう意味じゃなくって。他人のことは許せても自分のことは許せないから生きてる限りどんどん許せないが積み重なっていく。インプットにアウトプットが追い付いていないからいつでも消化不良。狂った時に狂った自分の責任は自分で取らなくちゃいけない。狂っている時にはそのことがよくわからないからいつだって後付けの借金になって背負うことになる。ここまでの記述は1日も思わない日がないくらい毎日考えているから、特別なことではないのだけれど、自分の中の魔物は自分で飼い慣らさなくちゃいけない。だから優しい人にはほんとに感謝している。いつもありがとう。

52ヘルツの鯨

更新されるということは言い方を悪くすると過去が汚されるということでもある、特別はずっと触れていたいか何も変わらないようにずっとずっと遠くへ置きたい、永遠はうつくしいけど考え方によってはもう死んでるってことだ、勝手だ。全部は心一つで意味が変わる。愛は憎しみだし、大切は乱雑だ。全ては心一つだからぼくは結果に興味がない。動機にしか興味がない。殺人をしようとして誰かを救ってしまった人と誰かを救おうとして殺人を犯してしまった人が居たとして、多くの人は自分に得や徳や利を持たらす者を賞賛し、災を持たらす者を非難すると思うが、ぼくは後者に同情する。だから敵にだって同情してしまうからぼくに敵なんて居ないしそうなると悪いのはいつもこの世界には自分だけということになってしまう、本物の悪意と悪人以外は。本物の悪意と悪人がこの世に居るのならば。九井諒子の「竜の学校は山の上」を思い出してしまった。もしくは創世のエル。魔王という絶対悪を勇者が倒した後には人類同士の戦争が始まってしまう。だから魔王という存在は憎まれるために必要なんだという物語。人は1人では生きていけないという。それは本当だろうか。140文字で世界を作って神目線になれるツールが生まれてから、寂しさは薄れても孤独は増えたように思う。孤独は1人でいる時に感じるものではなく、みんなが群れているのを見て自分が1人でいることを認識して生まれるものなのではないかと思う。52ヘルツの鯨は生きている。初めから1人なら孤独は感じないのかも知れない。みんな誰かを愛したり憎んだりしている。みんな誰かを愛したり憎んだりしているのを見て、自分には何もないことに絶望している人もきっといる。みんな多かれ少なかれ、誰かに執着している。愛も憎しみも関係がない。自分が居て、誰かが居る。何かを感じる。大切も乱雑も関係がない。嫌われても傷付きたくない。何にも感じないのは機械なのかな。傷付かないのは機械なのかな。おれはおれしか居ない。52ヘルツの鯨は何を叫んでいるのだろう。