知らない海

知っているものと知らないものの2つがあるけれど、知っているものを知るということもあるのだと知った。川が海に繋がっているということも、知識として知ってはいたものの、昨日初めてこの目で見て、この身体が知った。昨日は友達と江ノ島に行ったし江ノ電に乗った!夜の由比ヶ浜ではテンプレートみたいに見事な水着のギャルが街中を歩いてたし、これ全部テレビやマンガで見たり聞いたりしたものだ。鎌倉の街は物語のように美しかったけど、現実にこの街に住んでいる人が居ることに、人の人生の枝葉を想った。この街に住んでいるぼくもどこかの世界線には居るのだろうか。いま東京でサラリーマンをしているぼく。地元・北海道で暮らすぼく。そしてこの街の美しさに魅入られて住むことを選んだぼくも、もしかしたら居たのかも知れない。でもこれ全部やろうと思えば今からでも出来ることだ。海の近くに来ると、海の近くに住みたいと言っていた人のことを思い出す。ぼくの生まれた街にはしんしんと深く雪が降る。ぼくの中にはいつもあの景色があるし、海の近くに生まれた人の心には、その人にとっての海があるのだろうか。

f:id:kosame333333333:20170827162121j:image

f:id:kosame333333333:20170827162149j:image

沈んでばかりの海

夜が深くなると毎晩自分の人間としての才能のなさに幻滅する、わざわざこうして言葉にすることもないくらい毎晩。思ったことは言葉にしていかないとどんどん鈍っていく気がする。というかやってないこと全部どんどん鈍っていく気がする、呼吸とか。歩行とかですら出来なくなっていくんだから当たり前か。意思を持たないと意思なしで出来ることだけになってしまう、排泄とか、そういった類のもの。それは本質なんだろうか。ある意味では本質と言えるのに、どうして悲しいんだろう。

 

与えてもらうことに対してセンシティブだと思う。ぼくはよく感謝をする。時間を割いてくれてありがとう。遊んでくれてありがとう。お話してくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。優しい人はときたま、こちらこそありがとう、って言ってくれる。ぼくは与えてもらうことに対してセンシティブだと思う。こちらこそありがとう、なんて言ってくれるような素敵な人は、ぼくなんか居なくてもきっとずっと大丈夫だったよ、と思う。ぼく無しでも大丈夫だったのに、わざわざ関わってくれてありがとう、と思う。卑屈だと思う。でもそれを排する理屈も用意できないと思う。

二度と会えない人のことを考える。二度と会えないということは、二度と会えなくなるだけの何かがあったということだ。もしくは、一緒に居られるだけの何かが無かったということだ。だとしたら、出会ったことに意味はあったのだろうか。何かを与えることがぼくには出来たのだろうか。与えること。こちらこそありがとう、と言ってくれるような人達に、本当に何かを与えられているだろうか。

今、クーラーがゴーゴーと音を立てている。電源が入っていて、電気が流れている、機械だから、機械的に冷風を吐き続けている。家電になりたいなんて、クリープハイプは上手いこと歌詞にするなあなんて思う。空気清浄機とかなら、楽してやっていけそうだし、プラスマイナスで見て供与価値おれよりプラスなんじゃないかって思う。

自殺した人に話を聞いてみたいけど、自殺した人は死んでるから話が出来ない。青山景さんのマンガを本屋で見かけるたびにそう思う。ぼくは自分が受ける苦しみの大小より、自分が他人に与えられる価値の有無の方が興味があることに今気が付いた。死ぬまでに他人に与えられる良いことと悪いことの天秤が悪いことの方に触れるんだったら、今死んだ方がいいな〜とぼんやり思う。別に死にたくはないけど。誰も悲しませたくないし。ただ死んだ方がいいか、わるいかの話。

そろそろ行かなくちゃ

誰にもあげたくないものを大切にしようと思った、さいきんむかし好きだったものによく触れている。YouTubeでむかし好きだったバンドのMVを観て、投稿日時にウッとなる、それ自体がなんかもう毒されているという証拠だ。音楽は作られた時もそうだけど、それをいつ聴くかも同じくらい大事なのに。いま30年前の音楽を聴いて感動することも、最新型の音楽をいま聴いて心震わせるのと同じくらい大事なのに。東京に来てから2年くらいは何もかもが新しくて、心が震えっぱなしだった気がする…過去を美化しているだけかも知れないけど。でもここ最近は明らかに、以前より自分という存在が掴めないような、ここに居るのにここに居る自分がよくわからない感覚が体内を暴れ回っていた。「私でも何者かになれるかもしれないという気持ちに疲れてしまった」と言って地元に帰っていった友達の気持ちを想う。冒頭にも書いたけど誰にもあげたくないものを大切にしようと思った。それだけがぼくをぼく足らしめてくれる。それはファンタジーでも流行りじゃなくてもなんでもいい。夢はもういい、そろそろ行かなくちゃ。ぼくをぼくだと思ってくれる人、みんなありがとう

優しさ、暴力、白い闇

夜は黒いものだとされているが実際は白い、黒いのは空の色だけで夜自体に色は無い、だから今日の夜は白、だということを感じ取るにはそういうものだという理解と意識が要る。もちろん青い夜も黒い夜もある。それは知ってなくちゃならない。心は器で、中身がある。最近心が枯渇気味で文の泳がせ方を思い出せないから、初めて詩を書こうとした時のことを思い出す。やや黴た木枠、埃の匂い、部屋から窓の外を眺めていた。白い月とベタ塗りの空、それ自体を描くのではなくて、それをジッと眺めているうちに浮いてくる心の中が、現実と混ざり合うそれを描いていた。わからなくなったら、あの感覚を思い出しておこう。

優しい人になりたかったのに、生きてるだけで、厳密に言うと生きようとするだけで人を傷付けるし、殺してやりたいと言われたこともある。殺してやりたいという人の殺害欲求対象はぼくではなく、脳内で悪意を煮詰めて凝縮して膨らませたぼくに似た架空の生物なので、刺すならここだよ、と自分から伝えてあげたかった気持ちは優しさだったろうか。殺したい相手がわざわざ殺していいんだよって言いに来るのは怖かったかな。でも刺すならちゃんとそんな奴じゃなくておれを刺せよって思ったし、見えない敵より見える敵をぶん殴った方が相手も楽だろうと思ったんだ。ぼくを殺せない人生と、殺して刑務所に入る人生なら刑務所に入りたいとまで言っていたのに、一向に殺しには来ない。忘れちゃったのかな。加害者はすぐに忘れるし、被害者はいつまでも苛まれ続けるみたいなことを恨みがましく言っていたのに、加害者とされていたぼくは今でもずっと覚えているから、この話はぼくの勝ちだ。全く嬉しくないけど。

さいきん久しぶりに音楽の話だけを出来る友達が出来てとっても嬉しい。好きな音楽が好きなことなんて誰かの目を気にすることじゃないはずなんだけど、やっぱり軽音サークルではBUMP OF CHICKENよりGRAPEVINEが好きな方がかっこよかったし、音楽通を自負する人達の間ではGRAPEVINEよりceroが好きな方がわかってるっぽかった。おれは昔っからスガシカオチャットモンチーが大好きだったし、凛として時雨を聴いてバンドを始めたかったの。そういう気持ちで音楽の話が出来るのはとても嬉しい。仲良くなるキッカケはとても悲しい出来事だったから、何がどう転ぶかはわからない。

信頼できる人達に「運命ってあると思う?」って訊いた時のことを想う、1人は「場所だと思う、入る学校や会社・コミュニティは決められていると思う」って言っていて1人は「人だ、人生で出会う人は誰か決まっていると思う、俺は誰よりも自分の力で人生を切り開いてきたから運命なんてあるの嫌だけどね」って言っていた。どっちも納得だ。2人のうち「場所」と答えてくれた子は「君のことを殺したい人のことは仕方ないから、誰かを傷付けた分だけ誰かを救えばいいよ」と言ってくれたけど、その比率があの頃よりマシになったかというとわかんないな。結局その子のこともボコボコに傷付けて二度と会えなくなってしまった。好きな人や大事な人ほど感情が凶器化してしまうから、もう全員とセフレみたいに都合の良い関係を築きたいなあと思う。でもきっとそれはやさしさではないから、もうちょっとどうにかしなきゃなあと思う。わたしは人の尊厳を守れる人になりたいというあの夜の一文が、今も星みたいにチカチカ光って、凛とした声で再生される。

魔法が欲しい

悪い血が全身を回って体感体重を3倍くらいにしてる感じがする、もしくは血が三分の一くらいしかなくて力が入らない。将来への不安やお金のなさ、目の前のことを大切にできないこと、コミュニケーション不消化、ちょっとづつ嫌だなって思うことはあって、それは大多数の皆さんもまあおんなじだと思うんだけど、それらを一つづつこなす体力が最近めっきり無い感じがする。楽しいことがあってもリセットできない!マイナス10がマイナス5になるくらいの感じで、いつまで経っても0より上に行けない!そんな毎日を覆す、とびっきりの愛や魔法を求めているんだけど、そんなものどこにも無いので毎日を手作りしていくしかない、わかってる、でも言わせてくれ!魔法が欲しい!魔法が欲しい!ぼくだけのオリジナルオンリーワンでスペシャルな魔法が欲しい!バーニングフィンガーアタック!*1

*1:肩コリ、腰痛に効く魔法

ダサい

センスがいいものを好きでいたいけど本当に好きなものはダサい、ダサいものを好きだと言い切れるのはカッコいいことかと思いきややっぱりダサい、なぜならダサいものが好きだから。暮らしの絶望を食べながら同じだけの希望を忘れない少しの前向きさと今を楽しんで生きようという心持ちが現代の流行りだしセンスいいとわかっていても、おれはやっぱり過去に未練も執着もあるし、退廃や死に興味があるし、真実や本質といったあるかわからない概念を知った顔で飲み込みたいよ。最近「君が君でいることがまじ尊い」って言ってもらえて、それはなんてことの無い気持ちで放たれた言葉だったのかも知れなかったけれど、今いちばん欲しかった言葉だったかも知れないからありがとう。二度と変わらないから終わったものだけがぼくの持ち物のような気がする、気がするだけで本当はいちばん遠くにあって二度と手に入らないものなのにね。あの日自分で壊したものが、壊れなかったらどうなっていただろうと今でも何度も繰り返し思い出す。しんどくなったら全然死んで当てつけたいし、出来るだけ沢山の人に泣いてほしい、かまってちゃんだから。別にのんちゃんもそういうダメなところが尊かった訳じゃないだろうけど。

さっき高野京介さんのブログが目に入ってきたから読んだ。「どうせみんな死にます。僕も。逃げても、恥まみれ罪まみれでもいいじゃないですか。自分が誰かの黒歴史だとしても、みんなの大好きな人に拒まれたとしても」という文章、流行りじゃないな〜って思った。流行りじゃないからどうしたんだろう、別にいいじゃんね、心に引っかかったんだから。

さいきん凛として時雨をよく聴き返している。ハンパじゃなく好きだったのに、「どんな音楽好き?」って訊かれた時に答えるとダサいかなって思って言えない。あと「じゃあSiMとかも好き?」って訊かれるのがウザかったのもあるけど。全然違えだろうが。あとTHE NOVEMBERSは確かに好きなんだけど、じゃあART-SCHOOLsyrup16gも当然のように好きみたいなノリにするのやめてください。よく知らないです。

流行ってるものは気になるけどなかなか手を付けられないし、流行りが廃れて2年目くらいにようやく手を付けてみたりする。他人から薦めてもらったものもすぐには受け入れられない。

さいきん愛についてよく考える。無償の愛だとか言うけれど、相手の幸せだけをただ願う気持ちは美しいし尊いかも知れないけれど、自分の存在が無いなら在っても無くてもおんなじじゃないかと思い始めてきた。おれは好きな人に興味を持ってもらえないのはしんどいよ。束縛や破壊欲が愛ではないとも思わないよ。むかし好きだった人に「それは愛じゃないよ」と10年間言われ続けてきた。ある日とつぜん相手の幸せだけをひたすらに願える日が来てから「やっぱり君は私のことが好きだったのかもね」と言われて、ぼくも何かを悟った気でいたけれど、逆にそれは終わりだったのかも知れないなと今は思うよ。「君のことは遺伝子が「お前じゃない」と言っているけれど、君の愚かさを愛してあげられるのは私だけだよ」と言われた。意図や文脈や倫理観なんか関係なく、本当に全くその通りだと思ったし、全てが正しく作動していると思ったあの日はいつものように雪が降っていた。

夏の光、夏の陰

どうしても眠れないから観念してブログでも書くことにした。海と宇宙が似合うあの子がぼくのために見繕ってくれたという貝殻がどんななのかが今は楽しみだ。こないだラブサマが「ささこさんとあそびたいなって思ってた!」って言ってくれて嬉しかった。ぜんぜん連絡なんか取ってないのになあ。音楽を作る人と相対すると、ついそのラインの上で考えてしまって、ラブサマみたいにちゃんとやってる人に対しては「こんなに実績も無い人に仲良くしてくれてありがとう…」みたいな気持ちがむくむくと起き上がってきてしまう。なんかそれ、人間関係に対して失礼っぽいよね。音楽やってなかったとしても多分ラブサマのことは好きだけど、音楽やってなかったら出会ってなかったと思うから、複雑な気持ちだ。

自分のブログを読み返していたら、前にラブサマに会った日に、おれはどこかへ行ってしまう。おれはどこかへ行ってしまう。それだけはもしかしたら、少しだけ美しいのかもしれない。って書いてた。今はぜんぜん死にたくないし老いたくないし無くなりたくないし永遠が欲しいから、コロコロと気分は変わるなって思う。だからこそ、日を記しておくのには意味があるのか。そういえば眠れない夜にあの夏のことを思い出さなくなった。10代のうちには永遠だと思っていた恋もいつの間にか終わっていた。あの日魔法みたいだと思った瞬間は今も信じているけれど、きっと二度と手に入らないものだ。壊れない約束なんて無いのかも知れないけれど、100年続く約束がしたい。いつか死んだ時に全てを手に入れたと思えたのなら、それは永遠なのかも知れない。もしかすると人はいつか死ぬから永遠を手に入れられるのかも知れない。いま愛おしいものは何だろう。誰かにあげられるような経験がぼくにはあるだろうか。ぼくがいつも思い出すのは、誰かにもらった言葉ばかりだな。ぼくにしか向けられたことのない言葉たち。ぼくにしか意味のない言葉たち。もしかすると、ぼくの言葉も誰かの中にずっと残っていたりするのだろうか。そうだったらいいな。そうだったら嬉しいな。