mamono

自分の中の魔物は自分で飼い慣らさなくてはいけない、わかっていたつもりだったんだけどな、何度も何度も繰り返す、何度も何度も。冷静で対等じゃなくては誠実ではないと強く思うから自分はいつだって不誠実だ、頭が固いから柔らかくあろうと頑なに頑なに自分に繰り返し唱え続ける、それってもう感情だから冷静さも柔らかさの欠片もない。人にどう見せるかを気にして人にどう見られるかを気にすることが出来ない。というかもっと深くどう思われるかに到達できない。傷付けてしまった人には許されたいしでも許すか許さないかは自由だから許されなくてもまあ仕方ないけど傷付けてきた人に優しさがあるなら許そうと思う。なんなら優しさがなくても、自分に対する優しさがなくても善いところが誰かにあれば許そうと思えてしまう。ぼくを殺そうとしてきた人に対して最初に思ったのは、この人優しいからぼくが死んでもほんとは救われないだろうな、死んであげることもできなくて申し訳ない、だった。恨んでる人なんてほんとは居ない。中学時代に酷い言葉をぶつけてきた川内くんも、同窓会で会った時に「昔おれのこと嫌いだったしょ?」って訊いたらドキッとした顔して「へ、や、そんなことないよ」ってヘラヘラしてた時にどんな気持ちも雲散霧消した。なんだそんなもんだったんだ、気にして損した。高校の時に毎日聞こえるように悪口を言ってきてぼくを叩き潰したギャルはその性格の悪さ故にクラスの殆どの人に嫌われていったけどそれでもみんなに聞こえる音量で「わたしめっちゃ嫌われてんだよねーだからめっちゃ居心地悪いのウケない?」っで他クラスのギャルに何のこともないように言ってたの見た時、どんなに嫌われても自分を貫けるのかっこいいなと思ってしまった。これは優しさではない。敵を作ると勝てなかった時に完璧に傷付いてしまうからこれは全部自分を守るためだ。敵の良いところを見つけてしまう。その反動か、気を許した人には当たりが強くなりがちになってしまう癖にも自分で気付いている。ここで言う当たりは非難などと言った攻撃の類もそうだし、愛情とかそういった類のものでもそうだ。だから最初仲良くなれても気を許したり大事になりすぎると傷つけるのが怖くなってうまくいかなくなってしまうことがよくある。呼吸は意識せず普段しているが意識するとなかなか上手くいかなくなるとか、そういった感じ。だから一生ひとり。いや、人は元々ずっとひとりなんだけど。そういう意味じゃなくって。他人のことは許せても自分のことは許せないから生きてる限りどんどん許せないが積み重なっていく。インプットにアウトプットが追い付いていないからいつでも消化不良。狂った時に狂った自分の責任は自分で取らなくちゃいけない。狂っている時にはそのことがよくわからないからいつだって後付けの借金になって背負うことになる。ここまでの記述は1日も思わない日がないくらい毎日考えているから、特別なことではないのだけれど、自分の中の魔物は自分で飼い慣らさなくちゃいけない。だから優しい人にはほんとに感謝している。いつもありがとう。

52ヘルツの鯨

更新されるということは言い方を悪くすると過去が汚されるということでもある、特別はずっと触れていたいか何も変わらないようにずっとずっと遠くへ置きたい、永遠はうつくしいけど考え方によってはもう死んでるってことだ、勝手だ。全部は心一つで意味が変わる。愛は憎しみだし、大切は乱雑だ。全ては心一つだからぼくは結果に興味がない。動機にしか興味がない。殺人をしようとして誰かを救ってしまった人と誰かを救おうとして殺人を犯してしまった人が居たとして、多くの人は自分に得や徳や利を持たらす者を賞賛し、災を持たらす者を非難すると思うが、ぼくは後者に同情する。だから敵にだって同情してしまうからぼくに敵なんて居ないしそうなると悪いのはいつもこの世界には自分だけということになってしまう、本物の悪意と悪人以外は。本物の悪意と悪人がこの世に居るのならば。九井諒子の「竜の学校は山の上」を思い出してしまった。もしくは創世のエル。魔王という絶対悪を勇者が倒した後には人類同士の戦争が始まってしまう。だから魔王という存在は憎まれるために必要なんだという物語。人は1人では生きていけないという。それは本当だろうか。140文字で世界を作って神目線になれるツールが生まれてから、寂しさは薄れても孤独は増えたように思う。孤独は1人でいる時に感じるものではなく、みんなが群れているのを見て自分が1人でいることを認識して生まれるものなのではないかと思う。52ヘルツの鯨は生きている。初めから1人なら孤独は感じないのかも知れない。みんな誰かを愛したり憎んだりしている。みんな誰かを愛したり憎んだりしているのを見て、自分には何もないことに絶望している人もきっといる。みんな多かれ少なかれ、誰かに執着している。愛も憎しみも関係がない。自分が居て、誰かが居る。何かを感じる。大切も乱雑も関係がない。嫌われても傷付きたくない。何にも感じないのは機械なのかな。傷付かないのは機械なのかな。おれはおれしか居ない。52ヘルツの鯨は何を叫んでいるのだろう。

知らない海

知っているものと知らないものの2つがあるけれど、知っているものを知るということもあるのだと知った。川が海に繋がっているということも、知識として知ってはいたものの、昨日初めてこの目で見て、この身体が知った。昨日は友達と江ノ島に行ったし江ノ電に乗った!夜の由比ヶ浜ではテンプレートみたいに見事な水着のギャルが街中を歩いてたし、これ全部テレビやマンガで見たり聞いたりしたものだ。鎌倉の街は物語のように美しかったけど、現実にこの街に住んでいる人が居ることに、人の人生の枝葉を想った。この街に住んでいるぼくもどこかの世界線には居るのだろうか。いま東京でサラリーマンをしているぼく。地元・北海道で暮らすぼく。そしてこの街の美しさに魅入られて住むことを選んだぼくも、もしかしたら居たのかも知れない。でもこれ全部やろうと思えば今からでも出来ることだ。海の近くに来ると、海の近くに住みたいと言っていた人のことを思い出す。ぼくの生まれた街にはしんしんと深く雪が降る。ぼくの中にはいつもあの景色があるし、海の近くに生まれた人の心には、その人にとっての海があるのだろうか。

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沈んでばかりの海

夜が深くなると毎晩自分の人間としての才能のなさに幻滅する、わざわざこうして言葉にすることもないくらい毎晩。思ったことは言葉にしていかないとどんどん鈍っていく気がする。というかやってないこと全部どんどん鈍っていく気がする、呼吸とか。歩行とかですら出来なくなっていくんだから当たり前か。意思を持たないと意思なしで出来ることだけになってしまう、排泄とか、そういった類のもの。それは本質なんだろうか。ある意味では本質と言えるのに、どうして悲しいんだろう。

 

与えてもらうことに対してセンシティブだと思う。ぼくはよく感謝をする。時間を割いてくれてありがとう。遊んでくれてありがとう。お話してくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。優しい人はときたま、こちらこそありがとう、って言ってくれる。ぼくは与えてもらうことに対してセンシティブだと思う。こちらこそありがとう、なんて言ってくれるような素敵な人は、ぼくなんか居なくてもきっとずっと大丈夫だったよ、と思う。ぼく無しでも大丈夫だったのに、わざわざ関わってくれてありがとう、と思う。卑屈だと思う。でもそれを排する理屈も用意できないと思う。

二度と会えない人のことを考える。二度と会えないということは、二度と会えなくなるだけの何かがあったということだ。もしくは、一緒に居られるだけの何かが無かったということだ。だとしたら、出会ったことに意味はあったのだろうか。何かを与えることがぼくには出来たのだろうか。与えること。こちらこそありがとう、と言ってくれるような人達に、本当に何かを与えられているだろうか。

今、クーラーがゴーゴーと音を立てている。電源が入っていて、電気が流れている、機械だから、機械的に冷風を吐き続けている。家電になりたいなんて、クリープハイプは上手いこと歌詞にするなあなんて思う。空気清浄機とかなら、楽してやっていけそうだし、プラスマイナスで見て供与価値おれよりプラスなんじゃないかって思う。

自殺した人に話を聞いてみたいけど、自殺した人は死んでるから話が出来ない。青山景さんのマンガを本屋で見かけるたびにそう思う。ぼくは自分が受ける苦しみの大小より、自分が他人に与えられる価値の有無の方が興味があることに今気が付いた。死ぬまでに他人に与えられる良いことと悪いことの天秤が悪いことの方に触れるんだったら、今死んだ方がいいな〜とぼんやり思う。別に死にたくはないけど。誰も悲しませたくないし。ただ死んだ方がいいか、わるいかの話。

そろそろ行かなくちゃ

誰にもあげたくないものを大切にしようと思った、さいきんむかし好きだったものによく触れている。YouTubeでむかし好きだったバンドのMVを観て、投稿日時にウッとなる、それ自体がなんかもう毒されているという証拠だ。音楽は作られた時もそうだけど、それをいつ聴くかも同じくらい大事なのに。いま30年前の音楽を聴いて感動することも、最新型の音楽をいま聴いて心震わせるのと同じくらい大事なのに。東京に来てから2年くらいは何もかもが新しくて、心が震えっぱなしだった気がする…過去を美化しているだけかも知れないけど。でもここ最近は明らかに、以前より自分という存在が掴めないような、ここに居るのにここに居る自分がよくわからない感覚が体内を暴れ回っていた。「私でも何者かになれるかもしれないという気持ちに疲れてしまった」と言って地元に帰っていった友達の気持ちを想う。冒頭にも書いたけど誰にもあげたくないものを大切にしようと思った。それだけがぼくをぼく足らしめてくれる。それはファンタジーでも流行りじゃなくてもなんでもいい。夢はもういい、そろそろ行かなくちゃ。ぼくをぼくだと思ってくれる人、みんなありがとう

優しさ、暴力、白い闇

夜は黒いものだとされているが実際は白い、黒いのは空の色だけで夜自体に色は無い、だから今日の夜は白、だということを感じ取るにはそういうものだという理解と意識が要る。もちろん青い夜も黒い夜もある。それは知ってなくちゃならない。心は器で、中身がある。最近心が枯渇気味で文の泳がせ方を思い出せないから、初めて詩を書こうとした時のことを思い出す。やや黴た木枠、埃の匂い、部屋から窓の外を眺めていた。白い月とベタ塗りの空、それ自体を描くのではなくて、それをジッと眺めているうちに浮いてくる心の中が、現実と混ざり合うそれを描いていた。わからなくなったら、あの感覚を思い出しておこう。

優しい人になりたかったのに、生きてるだけで、厳密に言うと生きようとするだけで人を傷付けるし、殺してやりたいと言われたこともある。殺してやりたいという人の殺害欲求対象はぼくではなく、脳内で悪意を煮詰めて凝縮して膨らませたぼくに似た架空の生物なので、刺すならここだよ、と自分から伝えてあげたかった気持ちは優しさだったろうか。殺したい相手がわざわざ殺していいんだよって言いに来るのは怖かったかな。でも刺すならちゃんとそんな奴じゃなくておれを刺せよって思ったし、見えない敵より見える敵をぶん殴った方が相手も楽だろうと思ったんだ。ぼくを殺せない人生と、殺して刑務所に入る人生なら刑務所に入りたいとまで言っていたのに、一向に殺しには来ない。忘れちゃったのかな。加害者はすぐに忘れるし、被害者はいつまでも苛まれ続けるみたいなことを恨みがましく言っていたのに、加害者とされていたぼくは今でもずっと覚えているから、この話はぼくの勝ちだ。全く嬉しくないけど。

さいきん久しぶりに音楽の話だけを出来る友達が出来てとっても嬉しい。好きな音楽が好きなことなんて誰かの目を気にすることじゃないはずなんだけど、やっぱり軽音サークルではBUMP OF CHICKENよりGRAPEVINEが好きな方がかっこよかったし、音楽通を自負する人達の間ではGRAPEVINEよりceroが好きな方がわかってるっぽかった。おれは昔っからスガシカオチャットモンチーが大好きだったし、凛として時雨を聴いてバンドを始めたかったの。そういう気持ちで音楽の話が出来るのはとても嬉しい。仲良くなるキッカケはとても悲しい出来事だったから、何がどう転ぶかはわからない。

信頼できる人達に「運命ってあると思う?」って訊いた時のことを想う、1人は「場所だと思う、入る学校や会社・コミュニティは決められていると思う」って言っていて1人は「人だ、人生で出会う人は誰か決まっていると思う、俺は誰よりも自分の力で人生を切り開いてきたから運命なんてあるの嫌だけどね」って言っていた。どっちも納得だ。2人のうち「場所」と答えてくれた子は「君のことを殺したい人のことは仕方ないから、誰かを傷付けた分だけ誰かを救えばいいよ」と言ってくれたけど、その比率があの頃よりマシになったかというとわかんないな。結局その子のこともボコボコに傷付けて二度と会えなくなってしまった。好きな人や大事な人ほど感情が凶器化してしまうから、もう全員とセフレみたいに都合の良い関係を築きたいなあと思う。でもきっとそれはやさしさではないから、もうちょっとどうにかしなきゃなあと思う。わたしは人の尊厳を守れる人になりたいというあの夜の一文が、今も星みたいにチカチカ光って、凛とした声で再生される。

魔法が欲しい

悪い血が全身を回って体感体重を3倍くらいにしてる感じがする、もしくは血が三分の一くらいしかなくて力が入らない。将来への不安やお金のなさ、目の前のことを大切にできないこと、コミュニケーション不消化、ちょっとづつ嫌だなって思うことはあって、それは大多数の皆さんもまあおんなじだと思うんだけど、それらを一つづつこなす体力が最近めっきり無い感じがする。楽しいことがあってもリセットできない!マイナス10がマイナス5になるくらいの感じで、いつまで経っても0より上に行けない!そんな毎日を覆す、とびっきりの愛や魔法を求めているんだけど、そんなものどこにも無いので毎日を手作りしていくしかない、わかってる、でも言わせてくれ!魔法が欲しい!魔法が欲しい!ぼくだけのオリジナルオンリーワンでスペシャルな魔法が欲しい!バーニングフィンガーアタック!*1

*1:肩コリ、腰痛に効く魔法