祖父

夢でもう亡くなった爺さんに会った。爺さんはぼくをそれはそれはもう溺愛していたが、ぼくはずっと苦手だった。共通の話題はないし、話は噛み合わないし、かといって無視するような態度も取れないし、会うといつもお小遣いをくれるが、お小遣いを貰うために自分が良い顔をしているような気になって、心苦しかった。生前、一緒に釣りに行く約束をした気がする。父は、誰もいないところでぼくに「爺さんはもう長くないから、釣りでも旅行でも行ってやってくれ」と頼んだ。爺さんは帯広に住んでいたが、晩年は大きな家を売り、札幌にあるぼくの実家の裏の小さなアパートに部屋を借りていた。一度くらいしか行かなかった。旅行にも釣りにも行かなかった。

爺さんが亡くなってから、葬式で爺さんの妹さんとお話させていただいた。ぼくが爺さんについて知らなかったことを色々と聞かせていただいた。爺さんは10人兄弟だかの長男で、非常に賢かったらしい。爺さんはぼくや弟にはデレデレだったが、非常に厳しく意固地で、女性に厳しかったみたいだ。仲があまり良くないとは気付いていたが、叔母(爺さんの娘)との確執が、ぼくが思っていたよりも非常に強いことも、その時に知った。叔母は「女性は家庭に入るべき」だとか、そういった理由で爺さんに自由に生きる権利を奪われたとのことだ。兄であるぼくの父はその点、割と自由にさせてもらえていたようで、そのあたりに対する恨みや憎しみが今でもあるようだ。

ぼくが思うに、爺さんは寂しかっただけだと思う。妻と息子の他に、娘までどこかへ行ってしまうのが。だからといって叔母の想いを否定するわけではないけれど。

死後、葬儀やその他の処理等をおこなったのは父だった。あの頃、あんなに重い父の顔を初めて見た気がする。相続関係で叔母とも色々と揉めたらしい。叔母はぼくに対しては優しく明るい人だったから、父とそんなことで揉めるような姿は想像がつかなかった。

人は善いことをすると天国へ行き、悪いことをすると地獄へ行くという。でも善い人とは、悪い人とはなんだろうと思う。ぼくの家族はみな善人だと思う。思うけど、誰も傷付けたことが無いだとか、悪いことをしたことが無いだとかは思わない。爺さんは天国へ行けただろうか。そうであったらいいと思う。生前の様々なことなど、全て吹き飛ばすような国で暮らしていたらいいと思う。夢の中の祖父は、困ったような顔をしていた。お小遣いなんてもう出さなくていいんだよ。ありがとうね。

花を抱いて岸を離れた

この世の際で罪を選んでる、アマレットという曲の詞だ。罪を選んでいるという言葉が印象に残った。罪を選んでいる。生きている限り罪からは逃れられないのだろうか。買ってから毎日のように聴いている『Before Today』、THE NOVEMBERSのベストアルバムだ。THE NOVEMBERSは美しいバンドだけど結構に難解だからこのベストアルバムは非常によい。結成から12年目、12年間の間に変わったものや変わらないものを緩やかに受け入れてきたような純粋さがひんやりと心地よい。ぼくには無い、しなやかさだと思う。12年もの間やってきて、壁が無かったからこれから壁に挑戦していくんだろうと思う、というインタビューがよかった。これからも歩いていくんだなという、意気込みや気合いというよりは、呼吸や泳いでいくような自然さで、生きていくという感じがした。

ぼくはどんな罪を選んで生きていこう。

液体の夜、こわれものの朝

さいきん思ったことをただただ記しておこうと思う。幸福でも不幸でもどっちでもいいけどただ劇的じゃなきゃ意味ないと思ってしまうな。

季節が変わった、それはもう明らかに。夏にあった悲しいことは、秋になったら流れよう。何かを切り替えるのにキッカケが欲しい人だから、季節があってよかった。風邪をひいてしまい、いつぶりかと思うくらい睡眠をとって、これまたいつぶりか布団の中でゲームをしていたら、頑張らなくてもよかったことを思い出した。うつくしいひとを見て焦ることなんかない、ぼくにしか無い才能があるのだから。

こないだサカナクションのギターボーカル・山口さんとお話をする機会があった。「うつくしいものはたいてい難しい」という言葉が印象に残った。うつくしいものはたいてい難しい。それを真実だと捉えるかどうかは人それぞれだと思うが、少なくともこの方は自分の中でブレない哲学を幾つも持っている人だという印象があり、非常に安心感を覚えた。ぼくはぼくの中で絶対にブレないものなど幾つ持っているだろう。確かに信じていた幾つかの小さな約束や宇宙は残り火や溜まり日のようにチロチロと光を残すばかりだ。一生好きだと思っていた人が、はしっこになるなんて思っていなかった。

歌は本質的に会話だ、ぼくは電話ごしに歌うのがいちばん得意だと思う。息を吸うように言葉を落としてしらしらと曲を作れたらと思う。それが最も理想的だと思うのに、ぼくの制作姿勢はおそらく左脳に寄っている。パズルを組み立てるのは億劫だ。もう少し意味から離れてみてもいいのかも知れない。夜を水と捉えられる五感が欲しい。

出来るだけ優しくあろうと思って生きてきたつもりだけれど、もっと他人を馬鹿にしたり嫌いになったり出来る人の方が存在が面白かったろうなと思うことがよくある。他人を馬鹿にしたり嫌いになれるということは、逆に言うとそれだけ自己の存在が確立していて、他と対照できているということだし、他を疎外してもいいと思えるくらいの強さも持っているということだ。誰も傷付けないことが優しさだとしたら、そこに居ないことがいちばん優しいということになる。本当はぼくも誰かに何かあたたかいものを与えたい。

朝は残骸のようだ。二度と巡らない日の抜け殻。さよならを言わずに去るのと、さよならを言って去るのとでは、どちらが優しいのだろうか。光の中で白く大抵の差分を塗りつぶしてしまう朝焼け。

夜はいつから夜だったのだろう、夜と名前がついた瞬間を知りたい、夜はいつ夜になるのだろう、18時くらい?時計がなかった時代に訪れる夜はどんな感触だったのだろう。というか区切りのない生活というのが想像つかないな。起きて狩猟などをし、そのうちに闇が訪れ、明るくなるまで眠るのか。そんな生活を想像してみる。四季に四季という名が付いていない時代の暮らし、風が通り暑くなり緑が失せ白い雪が降るのか、区切りも名前もなしに。ぼくらは朝9時から18時まで8時間働く生活。残業時間と休憩時間は別。26時頃には寝付いていないと次の日がしんどい。24時に日付が切り替わる。区切りばかりの暮らし。疑問を抱いたこともあまり無いかもしれないな、不思議だ。ぼくが考えそうなことだと思う。全てのものに始まりがあると思うと、非常に興味深い。人間が生まれ、人間が人間に人間と名前をつけた瞬間が歴史のどこかに間違いなくあったのだと思うと、近いような遠いような、不思議な距離感を想う。心理学者のユングが提唱した概念に「集合的無意識」というものがある。人間の意識が奥底で繋がっているということを示す概念だ。たとえば日本には「幽霊」という概念があり、遠く離れた国には「ghost」という概念がある。全く別の国の別の民族であるにも関わらず、同じような概念の発想に行き着く。日本に愛が生まれた時、異国にLOVEはあったのだろうか。生まれてから死ぬまで全てを知ることはできないなら、何故人には知識欲が存在するのか。生まれた意味、生きる意味、そして死んでいく意味。そんなの無いだなんて言われても、自然に考えてしまうこの身体が此処にある。自然に流れていく時間がある。ぼくたちはどこから来て、そしてどこへ行くのだろう。

愚痴

未来どころか過去にも追いつけないなら生きているとは言えない、もう、死んじゃった方がいいかな、と思う日が増えた。10代の頃の「耐えられない!!痛い!!!消したい消えたい死にたい!!!」みたいなのじゃなくて、「なんかもうやだな〜、こんな自分を抱えてやってくの疲れたな〜、たるいな〜」って感じ。手放しちゃっていいんじゃないかな、これ。10代の頃、自殺は愚かなことだと思っていた。何か耐えられないなら辞めたらいいし、何か合わないならどこかへ行けばいいし、死ぬ前に色々と試して、それでもどうしようもなかったら最後に選べばいいのに、と思っていた。でも生きる努力もそもそも面倒くさいんだよね。なんで逃げたりしなきゃいけないんだ。一歩も動きたくないのに。

 

ぼくはどうやら記憶力がいい、非常に。どうにもならなかったこと。うまくいかなかったこと。呪いのように全部覚えている。昨日のことのように思い出せる。生きる上で背負ってしまった傷、負えば負うほど増えていく。消えない。忘れられない。ほんとは優しさのつもりだったのにな。ほんとは愛のつもりだったのにな。そういうやつ。そういうやつが生きるほど増えていく。ならもう死にたいよ。どうせ死ぬなら誰かのためがいいな。自分が死ぬことで世界中が救われる、そういう魔法が欲しい。そんなものはない。愚痴。愚かで痴れている。

季節の中だけで終わるものは夏だけ、と昔インターネットで見かけた。春は来るし秋は冬へと変わるし、夏だけが終わるとされるらしい。夏は目に見えて熱く、明るく、眩しい季節だがぼくにはむしろ逆の感触をおぼえる。光が消える。熱が消える。思い出が過去になる。夏は喪う季節だ。熱にうなされ、白昼夢によろめき、幻を追う。死に近しい季節だ。実際はどうかわからないが、何かを失った記憶は、夏のことばかり思い出す。終わりを印象づける何かがあるのかもしれない。見えないものはある、見えないだけで。空気も音もあるのなら、黒い朝も白い夜もある。●●が好きだったマンガを読んだ、最後に会ったのはいつだろうと思う。二度と会えないのだとしたら、生きているのも死んでいるのもおんなじなのだろうか。夏には魔物が棲んでいる。気怠さと溌剌さが同居している。眩さにシの冷たさが隣り合っている。夏が終わってしまった。冷たくなる光、予感がなりを潜める。さみしさとさむさはどちらもさで始まる。さ、には青が住んでいる。生きてるだけでも素晴らしいはずなのに美しく生きなくてはと思ってしまう。もう半歩で積み木が崩れる。ぼくはもうどうなってもいい、そういうあの瞬間がまた欲しくなってしまう。あの日。散歩が好きだったことをふと思い出した。

せいかつ

何かを強く想うと心が硬くなってしまう、力を入れ過ぎると硬くなってしまうのは身体と同じかも知れない。何かを想った時にブログに残しておくのは面白い、後で見返すとまるで別人のようでもあり、何かを拾いなおすヒントにもなるかも知れないからだ。この二ヶ月くらいずっと作曲をしていて、週末は歌を録音する予定。飽きたら部屋を片付けよう。買う予定だったものを買いに行こう。美味しいものを食べよう。ところで自殺をするつもりの人は、死ぬ前に部屋を片付けることが多いと、むかし本で読んだ。最期に全てを綺麗に片付けてから死ぬらしい。死んでしまうつもりなら何でもできるそうだから、もう死んでやるって気持ちで、まずは出来ることからやろう。