液体の夜、こわれものの朝

さいきん思ったことをただただ記しておこうと思う。幸福でも不幸でもどっちでもいいけどただ劇的じゃなきゃ意味ないと思ってしまうな。

季節が変わった、それはもう明らかに。夏にあった悲しいことは、秋になったら流れよう。何かを切り替えるのにキッカケが欲しい人だから、季節があってよかった。風邪をひいてしまい、いつぶりかと思うくらい睡眠をとって、これまたいつぶりか布団の中でゲームをしていたら、頑張らなくてもよかったことを思い出した。うつくしいひとを見て焦ることなんかない、ぼくにしか無い才能があるのだから。

こないだサカナクションのギターボーカル・山口さんとお話をする機会があった。「うつくしいものはたいてい難しい」という言葉が印象に残った。うつくしいものはたいてい難しい。それを真実だと捉えるかどうかは人それぞれだと思うが、少なくともこの方は自分の中でブレない哲学を幾つも持っている人だという印象があり、非常に安心感を覚えた。ぼくはぼくの中で絶対にブレないものなど幾つ持っているだろう。確かに信じていた幾つかの小さな約束や宇宙は残り火や溜まり日のようにチロチロと光を残すばかりだ。一生好きだと思っていた人が、はしっこになるなんて思っていなかった。

歌は本質的に会話だ、ぼくは電話ごしに歌うのがいちばん得意だと思う。息を吸うように言葉を落としてしらしらと曲を作れたらと思う。それが最も理想的だと思うのに、ぼくの制作姿勢はおそらく左脳に寄っている。パズルを組み立てるのは億劫だ。もう少し意味から離れてみてもいいのかも知れない。夜を水と捉えられる五感が欲しい。

出来るだけ優しくあろうと思って生きてきたつもりだけれど、もっと他人を馬鹿にしたり嫌いになったり出来る人の方が存在が面白かったろうなと思うことがよくある。他人を馬鹿にしたり嫌いになれるということは、逆に言うとそれだけ自己の存在が確立していて、他と対照できているということだし、他を疎外してもいいと思えるくらいの強さも持っているということだ。誰も傷付けないことが優しさだとしたら、そこに居ないことがいちばん優しいということになる。本当はぼくも誰かに何かあたたかいものを与えたい。

朝は残骸のようだ。二度と巡らない日の抜け殻。さよならを言わずに去るのと、さよならを言って去るのとでは、どちらが優しいのだろうか。光の中で白く大抵の差分を塗りつぶしてしまう朝焼け。