小雨が燦々と降る夜はエモい

思うままに綴る詩のような日記

こぎとえるごすむ/すまない

おれの愛は基本的に湧き出る泉を止めない止められないことだから水質の如何は問題ではないしデザインセンスがないな、基本的に人に届けるものだという感覚がない。友人の実存などしているだろうかという思想が胸を打った、ぼくはかつて実存など疑うべくもないことだと思っていたよ。在るか無いか、間違いなく在るとすればそれは在るのだ。だから愛と執着の違いみたいな話にはピンとこない。それは届けられた側が届けられた瞬間に名前をつけることで、生まれた瞬間にはどちらもただの存在だからだ。でもまあ生まれたからには美しい形で届けたいし心地良く受け取ってもらいたいよねということには異論無い。少し話はズレるがやさしくなりたい。超圧倒的完全無欠の優しさ星人になりたい。よかれと思ってやったことが裏目にでる、だとか、他人のためにやったことが実は自分のため、だとか。そういう愚かさ愛おしさなんて角が立たない程度にうまく排除して、誰かに意識されたり気を遣わせたりすることもせず、意識を身体の外側まで拡張して、客観的に全てを淀みなくコントロールできたい。というのは3日ほど前に考えていてブログの下書きから引用した話なのだけど多分10年とちょっとくらいやさしさについて考えていた。14才の夏から。さいきん「やさしい」って言ってもらえることが増えた。それはおれがそう言ってくれる素敵な人ばかり交友を持っているということだと思うが、もし本当にやさしくなれているとしたら10年くらいはあらゆることにかかるしやれることなんていくつもないなと思った。時間はきっとない。生き尽くすという文字列がぼくには空々しく響く。おれはいま何を見ている?目の前のことってなんだろう。こんなに存在しているのに、足は宙に浮いているようだ。