余命数百年

最近あったこと、思ったこと。前代未聞の人だと言われた。すごい人には誰かがすごいって言ってあげなくちゃならない。ぼくが思うことはぼくしか知らないから、ちゃんと外に出してあげなくちゃならない。きみのことを偉いといちばん思ってるのはぼくだと思う。きみがぼくの愚かさを愛してあげられるのは自分だけだと言っていたの、本当は嘘じゃなかったと思う。君もあの子も言っていた、3年くらいという期間が本当だったかはわからない。そして気がつくと、もうすぐ最初の3年が経つ。氷の街という曲について「今の君だね」と言ってもらってからは、もう3年くらい経った。だけど今でも歌ってる。違和感はある。みんな変わっていく。痛みだけが地続きだから、結局そこに帰ってくる。変わっていくものを認めるのに20年くらいかかったから、寿命がまだまだ足りない。心がまだまだ足りない。

わたしのここ

ずっと個人的でいたい、ずっとずっとそれはもうずっと個人的でいたい。いるんだろうな〜きっと。これは社会性というものを貶めているわけではなく、社会性は社会的なステージでのみ評価されるべきだと思っている。たとえば人を愛すること(別にこの例えは何だっていい)。別に殺し殺されたっていいんですよ、お互いの合意の確信さえあれば。友達にしては重いだとか、恋人にしては軽いだとか、誰だ情を最初に重量で量り始めた輩は。求められるところで立っていようとすること(社会性)は素敵だけど、感情のステージでは不純だ。なんだっていいんだ、刺したら刺され返されるとしても、愛そうとしても蹴られるし、振りほどいても付いてくる。他に言いようがないものを天才と呼んだり、他に言いようがないからとりあえず愛と名付けたりする。いつだって言葉は後付けだということを忘れない。順番が逆だということに気付いていない人が多いように思う。個人的でいたい。個人的でいたいから、イヤホンの中で青葉市子を最大音量で流しています。

ほんとはしってる

甚だしく生きるのは間違っていないと思うので、大事なのはいちいち傷付かない心だと思う、強くならなくてはならない。強くなるというのは強くなるということではない、弱くないということなんだ。自分が誰かからちゃんと自分になるということなんだ。わかるかな?わかんないかな

人の縁というのはうまい具合にできていて、感情なんて関係なくその人にとって必要な人に出会ってしまったり、どんなに望んでも関わりがなかったとして、それは結局お互いに得るものが無い関係だったり、関わらないことが実はいちばんお互いのために良かったりもする。だから全ては全てなんにも悲しくなんてない。だから問題はいつだって個人的なんだ。去っていく人や関わることがない人をどうしても愛しく思えてしまったりすることが悲哀というのだ。それを先人はさよならだけが人生だと表現した、のかもしれない。ぜんぜん知らないけど。ぼくは何にも知らない。何にも知らないくせに生まれた時からずっとぼくしか居ないこの世界の神様だったから、本当は全部知っている。何にも知らないことも全部知っている。

戦場、線上、洗浄

そういえば年末年始は実家に帰ってのんびりしていた。日本橋ヨヲコ先生の「G戦場ヘヴンズドア」を読み直したら昔はそうでもなかったのに、今は刺さりまくってウッカリ東京の部屋に持ち帰ってきてしまった。この凄まじさを全く感じられなかった過去の自分を想い、感性の幅が拡がっているような気がして少し嬉しかった。多分、おれは良くなっている。そうであってほしい。

本物と偽物、みんな本物になんか興味はない、これは間違いない。絶望より絶望っぽいものが好かれるし、悲しみより悲しみっぽいものが好かれる。絶望も悲しみも本当は誰にも理解できないし、何処にも行けないものだから。もちろん幸せだって本当は個人的でなきゃ意味がないから、人は幸せっぽいものに憧れ、まだ見ぬ幸せっぽい場所を目指す。でもG戦場ヘヴンズドアは本物だったし完全にフィクション・ストーリーだった。本物の偽物には血潮が通う。そういう覚悟を感じた。

「本当に面白い作品は心が健康じゃないと作れない」というようなセリフがひとつ、印象的だった。ここでいう健康とは文字通りの意味なのだろうか。主人公は創作を「狂ったとこ治してる」と表現していた。健康と狂気は相対していないようだし、そしてやはり両立するものなのだろう。 

ぼくらはぼくらにならなくちゃならない。そしてどこまで狂っても狂っても健康でいなくちゃならない。悲惨で悲痛で熱くてポジティブな凄まじい作品だった。美しいものが好き。

 

 

大学生

美化したくないからいつでも始めたいだけなんだ、でもそういう衝動的な気持ちは基本的に犯罪者思考と通ずるな、でもしょーがないよね、感情は個人的で個人的じゃなきゃ意味ないんだから社会に沿うわけがない‬、ロックンローラーが反社会的なのではなくて、ロックンロールしていたら反社会的になっていただけなのだろう。ただの順番なのになんでみんなわからないんだろう、別にぼくはロックンローラーでも何でもないんだけれど。このまま悲しくなり尽くしていっそ星になってしまえたらな。善悪の類に染まらず君とぼくで居たかったな。2両の電車をぼくは見たことがない。君に会ったことがないぼくにも、ぼくは会ったことがない。

ポップンロール

昔付き合っていた女の子が「かつて好きで今はもう会えない人はもう死んだ人だと思ってる、でも来世では会ってみたい」のようなことを言っていた。じゃあぼくはもう死んだ人だ、彼女は来世で会いたいみたいだけど、今世でもう会えないのもぼくは結構さびしいよ。ぼくがぼくで君が君だったから、それはもう全部仕方ないのかも知れないけれど。

全部仕方ない。ぼくの辞書に「仕方ない」という言葉はなかった。

二度と会えないような気がしていても、思いも寄らないことで再会することだってあるかも知れないし、死なない限りどんな可能性だってあると思っていた。これはある意味では間違っていないと今でも思うし、またある意味では間違っていた。別れを経た人とはまた出会うことがあるかも知れないけれど、別れがあったという事実は消えないからだ。

別に人との出会いに限らず、もっと広く考えると、例えばどうしてもお金が無くて大学に行けないとか、「仕方のないこと」の例は容易に想像がつくので、ぼくは随分恵まれていたんだということに本当に最近まで気が付かないでいた。そして突き抜け切らずにこういうことに気付いてしまうあたり、そういう才能が中途半端だなあなどと思う。

 

誰にも言えないことを沢山抱えたら誰よりも特別になれると思っていた。

誰も気に留めないことを見つめ続けることが特別な才能だと思っていた。

だからぼくは「当たり前」を随分見過ごしてきたと思う。

例えば「なくしてから大切だったことに気付く」なんてJポップの失恋ソングの中でも使い古されすぎたフレーズだけれども、そんな当たり前すぎるほど当たり前の気持ちが自分にハマりこむだなんてなんだか気恥ずかしいし、でも当たり前のことはみんなが思うから当たり前なのであって、それはある種の真実みみたいなものを帯びてもいるのだなあと最近よく思う。当たり前、平凡、ありふれたもの。そういうものの、表面だけをなぞってわかったような気がして、その深さをぼくは知らなかった。その深みから自分の感覚や言葉で、上手く底をさらってきて形に落としこむ才能のことを「ポップ・センス」などと呼ぶのだろう。

 

論旨が明後日の方向を向いている。何を言いたいでもなく思い付くがままに筆を進めるから、よくこういうことが起こる。今夜は雨だった。ひどく冷たい雨だった。なのにわざわざ外に出て、雨に濡れてきた。雨に濡れながらYouTubeクリープハイプのライブ音源を聴いていたらたまらなく良かった。どうせ死なないんだから、そういう無駄なことをしていきたい。そういう意味のわからない瞬間をもう少し大事にしてもいい気がしました。

 

ちなみに今夜の曲はex.ダーリンです。

黒雨

数多無数の140文字によって得られる神視点はぼくだけの孤独や喜びや悲しみや誰にもわかってほしくなかったことを「これくらいの量の・これくらいの立ち位置の」に霧散させるから自分の感情にも自信を持てなくなってしまうな、今日は雨が冷たい、罰を与えるために後でもう一度外へ出ようと思う。涙を赤で塗って闇を消そうとした5年ほど前の夏に想いを馳せる。