小雨が燦々と降る夜はエモい

わかってもらえなくてもいい 日々の記録

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誰にもわかんなくていい日記

 

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誰かにわかってもらいたいブログ

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まわる/まわらない

夜が更けすぎて朝になってしまった。おかしいな、まるで端っこまで行くと反対側から帰ってくるファイナルファンタジーの世界地図みたいだ。なんで深まりすぎると1に戻ってしまうんだろう。電灯が点いていると部屋は明るい。朝も夜も関係なく明るい。全ては巡り巡るから、輪廻転生という概念を人が想起したのも自然な事なのかも知れない。電灯は夜を破壊した。ひとつの輪廻を破壊した最終兵器だ。今日は髪を切った、いや今日じゃない昨日だ。昨日はもう終わって今日になってしまった。髪を切られている最中、髪を切っているところをよく見るためだけにコンタクト・レンズを装着していった。色々な話を振ると真剣な目をしながらもコロコロと変えてくれる美容師さんの表情を見ながら、この人の好きなところをひとつずつ数えていた。貸してくれた「勝手にふるえてろ」をさっき読み終えた。今月のアタマに映画も観に行ったんだけど、また観返したくなった。原作を読んで、映画化するにあたって差し入れたアレンジが、見事だなと思ったから。

夜更かしが好きだ。というか、夜更かしが好きなことを思い出していた。忘れたくないこと。許したくなかったこと。恐ろしいのは、それが忘れたくなかったことだという事を、忘れてしまうことだ。かつて感情に従って生きることが人の正しい生き方だと信じていた。だから自分の感情を見つめようとしてきた。でも目に付くのは色んな悲しみばかりで、飽き飽きしてしまった。悲しみに付着する幸福は気にもとめないくせに、幸福に付着する悲しみが洗っても洗っても取れない汚れみたいに、気に食わない。純度100%の幸福。しあわせになりたい。みんな呪文のように唱えている。しあわせになりたあい。しあわせって、なんですか?地元の友達の口癖がハッピー!だったんだけど、なんでか訊いたら、幸せよりお手軽そうだからと返ってきた。ごはんがおいしい。ハッピー!お酒がおいしい。ハッピー!なるほど、わかる。

10代の頃、というかもっと最近まで、主人公って高校生か大学生くらいのことだと思っていた。どんな少年マンガでもたいてい主人公は16才とか17才とか20才とかで、20代も後半になってくるとオトナノ哀愁を漂わせる人気の脇役か、主人公だったとしても元・殺し屋とかそういう一般的なところからかけ離れた役どころが多い気がする。だから少年マンガで育ったぼくがそのように意識に刷り込まれているのも自然なことかも知れないだろう。でも最近、そんな事ないなと思う出来事があった。2018年1月10日のことなんだけど。大学時代の友達と話していて、ふと、大学時代よりもずっと素敵な人になっていると思ったんだ。なんか、オトナになっても全然完成していない。今でもずっと、というより、学生時代なんかより自分のお金で暮らし始めてからの方がよっぽど、何かを知ったり、変わったりしていくんだと実感しました。なんだ、まだまだ主人公じゃん、その時そう思ったんです。

5:55。

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5:55になってしまった。というかこれを書いてる時点で5:59になってしまった。これから寝るけど、ひどい睡眠不足で今日が始まってしまうのだろう。おやすみ。

一年

毎年恒例、一年の振り返り。とりあえず去年は何を想っていたか、ブログを見返してみたら「遠くへ行きたい」って言ってた。今年はぜんぜん思い通りに行かない年だったな〜って感じだったのに、そういえば確かに職場だけはアホほど遠くなったのに気付いてちょっと可笑しくなった。物理かよ。

東京に来て三年目、一年目は感傷の年だったらしい。二年目は焦燥。今年は、たくさんサボったような気がする。怠惰。怠惰の年だな。でも身体的にも精神的にもしんどくて、色々と見直せたのはよかったのかも知れないと思う。というか、見直さなきゃいけない時期だったのかも知れない。知らないけど。知れない。怠惰という言葉で括るのは、ちょっと違う気がしてきた。

今年は愛について特に考えた。愛とは。友愛とは恋愛とは、人を、モノを、水を空気を光を、闇を、過去を未来を愛していると掲げること。その意味。正しさ。

おれは束縛や執着を「それは愛ではない」などと一蹴しない。おれは愛を完璧に知り得てなどいない。なぜ断言することが出来よう。何が正しくて何が間違っているなど、何をもって決め付けることが出来よう。一見してとれる歪みが歪んだまま千年続いたとするなら、それはもう真実の愛と呼んでも差し支えないのではないのだろうか。そうすると、愛とは終わりの時にだけその価値を計れるものなのかも知れないと思った。永遠は死んだ時にしかわからないと昔の映画で言っていた。生きる意味も死ぬ時に決まるという。人はいつか死ぬ。おれは死にたくないが、死に意味を見出す日が来るのだろうか。

生き死にといえば。今年は終わり際に「Fate/Grand Order」通称:FGOというゲームにハマった。というか、ハマりすぎていて困っている。ゲーム、なんとなく封印してきたものの、今年は体調が芳しくなかったこともあり、動かずにも出来る遊びということで、ここに来て反動のようにガッツリとキてしまった。このゲームはザックリ説明すると、過去の偉人や物語の英雄を召喚して戦うRPGだ。出てくるキャラクターが史実や神話、伝承に即しているので、調べれば調べるほど面白いし、どんどん愛着も湧いていく。ストーリーも、神話や伝承のオマージュやパロディがふんだんに盛り込まれていて、勉強にもなるし、その見事さにも感心してしまう。歴史が好きな人なら余計に楽しめるのではないかと思う。さて、生き死にの話だが、このゲームは前述のように過去の偉人や英雄が無数に登場する。もちろん皆、歴史や書物に名が残っているものの、現代では既に亡くなっている訳だ。中には戦争や処刑、病気や虐殺など、理不尽な死に方をした英霊も少なくはなく、自ずと生きる意味・死ぬ意味というようなものが、テーマとしてストーリーに織り交ぜられている。勿論その出来栄え自体に感心し、物語を楽しんでいたものの、ずっと考えてしまった。生きる意味。死ぬ意味。数々のキャラクターが自らの生きる意味・死の意味を見つめながら戦っている様を見ていると、この作品の裏にもまた、命を削って作品を生み出している方々が大勢居て、それを受けて自分は自分を見つめなおしているのだと、そういう繋がりを実感する。誰かの中に何かを残すということ。働き始めて、もう3年が経つ。社会という箱庭の中での自分の身の置き所、つまり職業についてはいつも考えている。職業でなくてもいいのだけれど。自分がいま立っている場所がいったい何処なのか、もうずっとわからないような気がしている。深みのある話になってしまった。FGO面白いからみんなやろうぜ。

おれは良くなっているのだろうか。いつも考える。人は変わっていく。得たり失ったり、老いたり改めたり、人は、流れていく。この年いちばん聴いた音楽は、カネコアヤノだった。「変わってく覚悟はあるはずだ」まず最初にしなやかさを思わせるあの人が、そう歌っていること。かなり衝撃だった。そうか、変わることってやっぱり怖いんだ。受け容れていいんだ。そして受け容れるということは、=負けではないのかと思った。おれは頭が固いから気付かなかった。いつだって勝ちに行っていいということ。負けてもそれで終わりではないということ。とがる。何かを恐れながら、それでも慈しみ、愛おしみ、前へ進んでいくことを「とがってる、かなりね」と表現しているこの曲は、とても素敵な曲だと思う。

さて、これから。どういう年にしていきたいだろう。ここ数年は他人のことを考えすぎた気がする。自分の事。もう少し自分の事が知りたい。自由になりたい。好きな人、欲しいもの、失くしたこと、祈りや呪い。うまく考えがまとまらない。沢山の人と出会った。沢山の人ともっと楽しく過ごすために、ぼくはぼくになりたい。ぼくをもっとぼくに近付けたい。あけましておめでとうございます。これからもよろしくお願いします。

自由と地獄と永遠

12月19日。先日の忘年会は非常に楽しかった。年々、学生の頃より社会に身の置き所の多くを持つ立場になってからの方が楽しいと感じるような気がする。自分の意思で自分の持ち物を使用するということ。それはお金だとかもそうだし、暮らしだとか、自分で選んだものを買い、選んだ場所へ行き、選んだ経験を得て、選んだ人に会うこと。取捨選択こそがセンスだ、これはずっと前から言っている。センスによって取捨選択をし、取捨選択をするからセンスが再帰的に形作られていく。つまりは生きるということだ。人として、生きるということ。選ぶから選ばれていく。選んだから、縁や運命に引っ張られていく。この歳になってずっと忘れたくないと思うものがこんなに増えるなんて思ってなかった。本当に楽しかった。企画のナツイちゃん、本当にありがとう〜。はじめましてのユウちゃんも本当にありがとう〜。

 

さっき哲学の女と美味い酒を飲んでいたが口論になる。今年最後のいちばん不愉快な感情だったな。おれが生まれて生きて息づいてきたことを失礼だなんだと罵られた。おれの百年を言葉で括って愛で罵ろうとは、なんて薄い膜なのだろうと思ったら目の前が真っ暗になった。外側の皮膚は生きていく上で固くなっていってしまった分、内側から刺されることに目が醒めてしまう。別に怒ってないから、不愉快という結果だけが単体としてそこにあった。不愉快と怒らないが同時にある事なんて起こり得るんだと思った。一晩経った今はちょっとだけ嬉しい。よく真剣にちゃんと好き放題言ってくれた。不愉快と怒らないと嬉しいが両立している。

例えばの話、恋人が居てもその他とセックスが出来てしまう。それを自由と呼べるかどうかは自由にあかるくないのでおれにはわからないが、出来てしまうという選択が存在する事それ自体がおれには我慢ならなかったのだ。永遠と凍結が欲しい。永遠は儚さで、人間には身体と連続性が続いていくと思うと、帰りの道で死にたくなった。ネガティヴで安易な死への傾倒ではなく、身体が邪魔すぎるから死というファクターを置きたいと思った。それと死は圧倒的な事実できっとこの生命を吹き飛ばしてしまうから、机上の空論ばかりのおれにも丁度いいと思った。空気になりたい。意思のある概念になって身体性も時間性も失えば、うつくしいもののそばにずっと居られ続けるのにとずっと思っている。矛盾している。人は矛盾している。おれには身体があるから、会いたい人に会える自由があるし、会いたい人にあう永遠がない。

『大森靖子』を形作る祈りのひとつ

大森靖子さんのライブを久しぶりに観たんだけど嫉妬とか浅ましさとか羨望とか「何でわかってくれないんだろ」とかそういうの全部音楽に溶けて成仏した感じ。嫉妬もできないくらい圧倒的に負けた、すごく良かった。凛として時雨のMissing lingをカバーしてたんだけど嬉しすぎてびっくりしたし、完成度もおぞましいことになっていて本当に感動して泣いてしまった。1点から100点のモノサシを持って観に行ったんだけど普通に最低点でも120点叩き出すみたいなライブだった。ぼくは大森靖子のスタンスや作品やライブや愛や発言全てを愛することが出来なくて、それが多分ずっとコンプレックスだったと思う。普通にかなりこじらせ切ってるから「自分がいちばんわかってるのに」みたいな気持ちもたぶん人並み以上にあるし、そういうところを表に出すのがカッコ悪いっていうのもわかってるし、大森靖子が宗教みたいになっていく(真実はわからないけど、そういう風に見える一面はあると思う)のに我慢がならなかった。だって大森さんはきっといつだって人間として人間のために戦ってきたんだし。大森さんが生き尽くしている。だからただそれを見て、受けてるだけじゃダメじゃん、喜んでるだけじゃダメじゃんって思ってたし、「ただのファン」以上の何かにならなきゃいけないといつも焦っているような気持ちを持っていた。ぼくは大森さんがたまに言う「大森靖子はみんなで作り上げている」って感覚がずっとわからなくて、1日10回くらい、×100日以上経つので多分1000回以上その意味を考え続けてきたと思う。だっておれはおれじゃなきゃ意味ないし。おれがおれとして感動しなきゃ意味ないし。だから今日は良かったとか、今日はあんまりだったなとか、そういうのがないと嘘じゃん、と。全肯定ってなんだよ、と。でもなんか今日、なんだろう、この人の活動の一部に、ぼくが本当に感動したり、羨んだり、応援したかったり出来なかったり、好きだったり怖くなったり、決して綺麗ではいられない色々な想いの中から少しでも少しでもマシなものが、少しでも何かの足しになっていてくれたら、もうそれだけでもういいなと思った。たとえ僕という人間が、存在が、大森さんに嫌われていたとしても、関わりがなかったとしても。ぼくの人間としての器や身体を除いた、確かにあったと思う祈りのようなものだけが、何かになっていたら。そう思った時に、あ、そうか、そういうことなのかなと思った。「大森靖子をみんなで作り上げている」。ひとつのライブを観たひとりの人間の脳内の、勝手な思い込みのひとつかも知れないけれど。大森靖子を形作る祈りの一部かも知れないそれが、どうか「善いもの」であったらいいと思った。

ライフイズパーティ

ブログ書かなきゃなー、と思うんだけどなんかずっと気が乗らない。なんでかなーと思うんだけど自分の内の事柄について思索を馳せる事が怖かったのだといま気付いた。自分の内側の世界では線引きがないので、どうしても思い通りにならないことや納得できないこと、うまくいかなかったことについて、満ちゆくまで考え尽くせてしまう。それは多かれ少なかれ痛みが伴うことだ。痛いのがもうすっかり怖くなってしまった。現実やコンテンツ等、外側を追っていれば痛みもなく快楽だけを享受できる。最近ゲームばかりしていた。だけど何かが流れて失せていくことも怖いから、いまこうやって久しぶりに、拙くともフリックを滑らせている。

 

さいきん思想や哲学の知識に富んだ友達が出来て、色々な言葉を教えてもらう。その子自身、プロテスタントでもあるので、カミサマって居ると思うか訊いてみた。聖書には「我らは神の中で生き、動き、存在している」という言葉があるらしい。調べてみると、十七章二十八節。神という偉大な存在が居るというよりは、大きな流れのようなものが在るというのには共感する。運命、という概念もこれに近しいものだと思う。

メルヴィルの『バートルビー』という作品を教えてもらった。「せずにすめばありがたいのですが」と言い続け、出来ることを何もせずに死んでいく青年の物語らしい。「だからやりたいことはやったらいいよ」と言ってくれた。今年ももうすぐ終わる。楽しいことばかりじゃない一年だったけれど、思い出すと宝石のような思い出も幾ばくかあって、そういうものをくれてありがとうと思う。

 

ところで昨日は誕生日パーティを開いてもらった。誕生日パーティなんていつぶりだろう。小学生?中学生?今年の誕生日は特別面白いようなことがなかったから嬉しかった。五感ごと記録したいと思ったけど無理だから、せめて文字だけでもと思い、ブログに記す。特別は手作りだって教えてくれていつもありがとう。

 

 

さいきん感謝の人みたいになってて嫌ですね、自尊心が低くなってるのかも

潔癖

誰かはいつか居なくなるし、大切なものは壊しに行くとたいてい壊れるし、芸術から得た個人的感動だけがずっと永遠だな。どんなに剥がそうとしても剥がれなかったものだけを信じようとする癖がある。壊して壊して壊して、残ったものだけを愛したいような。