小雨が燦々と降る夜はエモい

わかってもらえなくてもいい 日々の記録

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誰にもわかんなくていい日記です

 

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わかってもらいたい方のブログ

tamashiiga-yavai.hatenablog.jp/

せいかつ

何かを強く想うと心が硬くなってしまう、力を入れ過ぎると硬くなってしまうのは身体と同じかも知れない。何かを想った時にブログに残しておくのは面白い、後で見返すとまるで別人のようでもあり、何かを拾いなおすヒントにもなるかも知れないからだ。この二ヶ月くらいずっと作曲をしていて、週末は歌を録音する予定。飽きたら部屋を片付けよう。買う予定だったものを買いに行こう。美味しいものを食べよう。ところで自殺をするつもりの人は、死ぬ前に部屋を片付けることが多いと、むかし本で読んだ。最期に全てを綺麗に片付けてから死ぬらしい。死んでしまうつもりなら何でもできるそうだから、もう死んでやるって気持ちで、まずは出来ることからやろう。

あの島

美しさに想いを馳せられない時、自分は疲れているなあと思う。ぼくの敬愛するスガシカオはかつて「音楽を作る者は罪の意識を抱えていると思う」と佐野元春のザ・ソングライターズで言っていた。その後ミスチルの櫻井さんがゲストの回で「スガさんがそのようなことを言っていたがどう思うか」問われた時には笑ってはぐらかしていたから櫻井さんはそんなことなさそうだけど。罪の意識。何かに後ろめたいような気持ちはずっとある。14才の時に染み付いた思考の癖みたいなものだ。変わってしまうことを恐れていたけれどなんだかずっと自分の愚かさは消えない。自省こそが君みたいなところがあると言われたことを思い出して少し侘しいけれど、それなりに正しいとも思う。君の揺れ幅こそが存在だと言ってくれた妖精に会いたい、もう2年も前に1度会ったきりだ。彼の中ではぼくはずっと少年なんだろうと思う。彼の前ではきっと少年で居させてくれる。あの頃より歌は上手くなったんだ。いつか一緒に歌いたいな。

mamono

自分の中の魔物は自分で飼い慣らさなくてはいけない、わかっていたつもりだったんだけどな、何度も何度も繰り返す、何度も何度も。冷静で対等じゃなくては誠実ではないと強く思うから自分はいつだって不誠実だ、頭が固いから柔らかくあろうと頑なに頑なに自分に繰り返し唱え続ける、それってもう感情だから冷静さも柔らかさの欠片もない。人にどう見せるかを気にして人にどう見られるかを気にすることが出来ない。というかもっと深くどう思われるかに到達できない。傷付けてしまった人には許されたいしでも許すか許さないかは自由だから許されなくてもまあ仕方ないけど傷付けてきた人に優しさがあるなら許そうと思う。なんなら優しさがなくても、自分に対する優しさがなくても善いところが誰かにあれば許そうと思えてしまう。ぼくを殺そうとしてきた人に対して最初に思ったのは、この人優しいからぼくが死んでもほんとは救われないだろうな、死んであげることもできなくて申し訳ない、だった。恨んでる人なんてほんとは居ない。中学時代に酷い言葉をぶつけてきた川内くんも、同窓会で会った時に「昔おれのこと嫌いだったしょ?」って訊いたらドキッとした顔して「へ、や、そんなことないよ」ってヘラヘラしてた時にどんな気持ちも雲散霧消した。なんだそんなもんだったんだ、気にして損した。高校の時に毎日聞こえるように悪口を言ってきてぼくを叩き潰したギャルはその性格の悪さ故にクラスの殆どの人に嫌われていったけどそれでもみんなに聞こえる音量で「わたしめっちゃ嫌われてんだよねーだからめっちゃ居心地悪いのウケない?」っで他クラスのギャルに何のこともないように言ってたの見た時、どんなに嫌われても自分を貫けるのかっこいいなと思ってしまった。これは優しさではない。敵を作ると勝てなかった時に完璧に傷付いてしまうからこれは全部自分を守るためだ。敵の良いところを見つけてしまう。その反動か、気を許した人には当たりが強くなりがちになってしまう癖にも自分で気付いている。ここで言う当たりは非難などと言った攻撃の類もそうだし、愛情とかそういった類のものでもそうだ。だから最初仲良くなれても気を許したり大事になりすぎると傷つけるのが怖くなってうまくいかなくなってしまうことがよくある。呼吸は意識せず普段しているが意識するとなかなか上手くいかなくなるとか、そういった感じ。だから一生ひとり。いや、人は元々ずっとひとりなんだけど。そういう意味じゃなくって。他人のことは許せても自分のことは許せないから生きてる限りどんどん許せないが積み重なっていく。インプットにアウトプットが追い付いていないからいつでも消化不良。狂った時に狂った自分の責任は自分で取らなくちゃいけない。狂っている時にはそのことがよくわからないからいつだって後付けの借金になって背負うことになる。ここまでの記述は1日も思わない日がないくらい毎日考えているから、特別なことではないのだけれど、自分の中の魔物は自分で飼い慣らさなくちゃいけない。だから優しい人にはほんとに感謝している。いつもありがとう。

52ヘルツの鯨

更新されるということは言い方を悪くすると過去が汚されるということでもある、特別はずっと触れていたいか何も変わらないようにずっとずっと遠くへ置きたい、永遠はうつくしいけど考え方によってはもう死んでるってことだ、勝手だ。全部は心一つで意味が変わる。愛は憎しみだし、大切は乱雑だ。全ては心一つだからぼくは結果に興味がない。動機にしか興味がない。殺人をしようとして誰かを救ってしまった人と誰かを救おうとして殺人を犯してしまった人が居たとして、多くの人は自分に得や徳や利を持たらす者を賞賛し、災を持たらす者を非難すると思うが、ぼくは後者に同情する。だから敵にだって同情してしまうからぼくに敵なんて居ないしそうなると悪いのはいつもこの世界には自分だけということになってしまう、本物の悪意と悪人以外は。本物の悪意と悪人がこの世に居るのならば。九井諒子の「竜の学校は山の上」を思い出してしまった。もしくは創世のエル。魔王という絶対悪を勇者が倒した後には人類同士の戦争が始まってしまう。だから魔王という存在は憎まれるために必要なんだという物語。人は1人では生きていけないという。それは本当だろうか。140文字で世界を作って神目線になれるツールが生まれてから、寂しさは薄れても孤独は増えたように思う。孤独は1人でいる時に感じるものではなく、みんなが群れているのを見て自分が1人でいることを認識して生まれるものなのではないかと思う。52ヘルツの鯨は生きている。初めから1人なら孤独は感じないのかも知れない。みんな誰かを愛したり憎んだりしている。みんな誰かを愛したり憎んだりしているのを見て、自分には何もないことに絶望している人もきっといる。みんな多かれ少なかれ、誰かに執着している。愛も憎しみも関係がない。自分が居て、誰かが居る。何かを感じる。大切も乱雑も関係がない。嫌われても傷付きたくない。何にも感じないのは機械なのかな。傷付かないのは機械なのかな。おれはおれしか居ない。52ヘルツの鯨は何を叫んでいるのだろう。

知らない海

知っているものと知らないものの2つがあるけれど、知っているものを知るということもあるのだと知った。川が海に繋がっているということも、知識として知ってはいたものの、昨日初めてこの目で見て、この身体が知った。昨日は友達と江ノ島に行ったし江ノ電に乗った!夜の由比ヶ浜ではテンプレートみたいに見事な水着のギャルが街中を歩いてたし、これ全部テレビやマンガで見たり聞いたりしたものだ。鎌倉の街は物語のように美しかったけど、現実にこの街に住んでいる人が居ることに、人の人生の枝葉を想った。この街に住んでいるぼくもどこかの世界線には居るのだろうか。いま東京でサラリーマンをしているぼく。地元・北海道で暮らすぼく。そしてこの街の美しさに魅入られて住むことを選んだぼくも、もしかしたら居たのかも知れない。でもこれ全部やろうと思えば今からでも出来ることだ。海の近くに来ると、海の近くに住みたいと言っていた人のことを思い出す。ぼくの生まれた街にはしんしんと深く雪が降る。ぼくの中にはいつもあの景色があるし、海の近くに生まれた人の心には、その人にとっての海があるのだろうか。

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沈んでばかりの海

夜が深くなると毎晩自分の人間としての才能のなさに幻滅する、わざわざこうして言葉にすることもないくらい毎晩。思ったことは言葉にしていかないとどんどん鈍っていく気がする。というかやってないこと全部どんどん鈍っていく気がする、呼吸とか。歩行とかですら出来なくなっていくんだから当たり前か。意思を持たないと意思なしで出来ることだけになってしまう、排泄とか、そういった類のもの。それは本質なんだろうか。ある意味では本質と言えるのに、どうして悲しいんだろう。

 

与えてもらうことに対してセンシティブだと思う。ぼくはよく感謝をする。時間を割いてくれてありがとう。遊んでくれてありがとう。お話してくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。優しい人はときたま、こちらこそありがとう、って言ってくれる。ぼくは与えてもらうことに対してセンシティブだと思う。こちらこそありがとう、なんて言ってくれるような素敵な人は、ぼくなんか居なくてもきっとずっと大丈夫だったよ、と思う。ぼく無しでも大丈夫だったのに、わざわざ関わってくれてありがとう、と思う。卑屈だと思う。でもそれを排する理屈も用意できないと思う。

二度と会えない人のことを考える。二度と会えないということは、二度と会えなくなるだけの何かがあったということだ。もしくは、一緒に居られるだけの何かが無かったということだ。だとしたら、出会ったことに意味はあったのだろうか。何かを与えることがぼくには出来たのだろうか。与えること。こちらこそありがとう、と言ってくれるような人達に、本当に何かを与えられているだろうか。

今、クーラーがゴーゴーと音を立てている。電源が入っていて、電気が流れている、機械だから、機械的に冷風を吐き続けている。家電になりたいなんて、クリープハイプは上手いこと歌詞にするなあなんて思う。空気清浄機とかなら、楽してやっていけそうだし、プラスマイナスで見て供与価値おれよりプラスなんじゃないかって思う。

自殺した人に話を聞いてみたいけど、自殺した人は死んでるから話が出来ない。青山景さんのマンガを本屋で見かけるたびにそう思う。ぼくは自分が受ける苦しみの大小より、自分が他人に与えられる価値の有無の方が興味があることに今気が付いた。死ぬまでに他人に与えられる良いことと悪いことの天秤が悪いことの方に触れるんだったら、今死んだ方がいいな〜とぼんやり思う。別に死にたくはないけど。誰も悲しませたくないし。ただ死んだ方がいいか、わるいかの話。