小雨が燦々と降る夜はエモい

思うままに綴る詩、もしくは思想

もうこれ以上生きれない

夜をシーツでくるんで、なんてありきたりなフレーズが目に残っている。夜の中で夜を捉えることも、その中に立つ自身の肉体に意思を向けることも久しくおこなっていない。もう手遅れ感があるから、死んでもいいのかもしれない。前向きに生きている身体と相反して、心はずっとあさっての方向を向いている。来週のこと、来月のこと、来年のこと、10年後のこと。そんなのわからないと嘯きながら、本当はよく考えていなかったのかもしれない。誰の邪魔もしたくない。誰の美しさにもシミを残したくない。助かっているフリをするのも嫌になってきた。いつもありがとうって思っている。それはなんでかというと、ありがとうと思わないとならないからだ。誠実さが手に負えない。感情の形を掴めない。ライフイズパーティという曲が好きだ、だってそんな言葉ずるい。捉えないでよ。言葉にしないでよ。他人の言葉に救われたりなんかしたくなかった。自分のもの以外に救われるのはいやらしい。消費しかできない。大事にするってなんだ?Brokenという曲が好き、とても素直だから。おれは知人が自殺未遂とかするの嫌なんだ、お前なんかよりおれの方がお前の美しさを知ってる。馬鹿にしやがって、と思う。死んだ方がいいのはいつだって俺の方だったのに。

いつだって誰かを何かを嘘を本当を

悲しみは変わらず横たわっていたとしても、とりあえず置いておくのがとても上手くなった。見つめても仕方のないもの、作曲はもしかしたら唯一それを見つめていてもいい瞬間だったのかもしれない。自分の感情は自分しか知らず、自分が死んだら初めから無かったことと同じになってしまうから、自分だけは全部覚えていなくちゃ、そんな気持ちで自分の感情に執着を続けていた、のだと思う。暇だったのだと思う。今や覚えていられない、あまりの情報の量についていけない。日々が虚しく過ぎる、そのたびに、自分が今日そんな日々を選んだことを責めるが、それも後回しにして、ページがめくられる。積み重なっていくめくられない感情のページ。悲しみに目を向けると足が止まってしまうから目を背けるけど、だからといって足を進めるわけでもない。泳ぐように生きる人に惹かれ、そのたびに溺れるように生きる自分のはしたなさに辟易する。ねえ、選ばなくてはいけないのだろう。これまでも選んできたけど、あまりにも愚鈍なんだ。深い感情は胸が痛いけど、浅瀬で感情の波を遊ぶことは、だらしのないことだ。聡明とか光とか美しさとかそういう言葉を口に出すのが恥ずかしい。好きって知ってる?嫌って知ってる?言葉って知ってる?心って知ってる?知らないと言い切ることもできない、多分私はどれも持っていないから。

どうせいつか

大切にしたりされたりすることがそんなに大切だなんて思えない、どうせいつか死ぬので。刺して毟るような烈しさが昔から俺をかたどる。テンポがズレて世界に置いていかれたり、世界を置いていったり、どちらにせよいつだって一人で生きている。過去が俺を作るが何の意味もない。他人だし他人事じゃんね。いつでも捨てられるものしか意味がないし、絶対に消えないものが欲しい。ハイブリッド絶望希望、失くしたものと手にしたものに本当は違いなんてない、どうせいつか死ぬので。そうしたら安心して誰かを大事にしたりもできる、どうせいつか死ぬので。

超夏!!!

超夏やんけ

 

いま池袋駅から歩いて帰っているところ。この道にも色々と思い出ができた、故郷じゃなくてもどこにだって思い出が生まれるけど、それはだいたいひとりのことじゃなくて、好きな人とか友達のこととか、誰かのことなのでいつも感謝している。毎日死にたくないな〜って思う、そう思ってるってことは死を意識してるってことだから健全ではないかも知れない。時間が足りないな〜、会いたい人とか、してみたいこととか、まだまだ沢山ある。でもコマを埋めるように、イベントをこなすようにするのも良くないと思う。この遊び、いっこクリア!みたいな。いつも根本的に今を楽しむという感覚が抜け落ちている、今あるものを大事にするとか。そうやって傷つけた人も沢山いると思う。やりたいことしかしたくないはずなのにな、へんなの。でもなりたい自分になるために、やりたくないこともやらないとどうにもならなかったから、今まで。ぼくらしさとか自分らしさとかわかんないけど、本当の自分なんてえっちなビデオとか見てずっと寝てたいだけだし、そんなものは要らないんだ実際。誰かが好きと言ってくれたところを思い出して、そういうものなんだなって思っている方がずっとずっと大事さ。夏の匂いがする。夏には匂いなんてないのかも知れないけど、確かに感じる。そういうことを感じられる自分は好きだ。人の良さ、わからない人にはわからないみたいだけど、わかるとこも好きだ。あなたの好きなとこも、どういうところか訊いてくれたら教えるよ。バイぜ!

軽率に海にきてしまった

海に来たのでブログを書く。海に来たのにお酒を飲みながらSNSを覗いてばかりいるのもどうしようもない感じなのでブログを書く。それもどうなんだという感じだが、SNSより良いです。なぜならブログは残るからです。いま目の前に海があります。海風がスーツに絡みついてジンワリ湿っています。10mほど左に同じく座っている人影が見えます。よく見たら三脚みたいなものがあるので、もしかしたら海の映像を撮っているのかも知れません。風が冷たいです。ビールの味はよくわかりません。バイクの音と風の音と波の音が混ざり合って聴覚に心地よいです。遠くで光が見えます。お城のような建物も見えます。見上げると星が見えます。遠くで灯台がチカチカしました。それだけなんですけど落ち着きます。海に一緒に来た人を思い出します。もう二度とないと思います。また灯台の光が消えました。目を閉じます。肌の上を風が撫でて自分の輪郭を知ります。きっとこれからも楽しいことがあります。海を見たことのない人の気持ちを想いました。隣の人が帰り支度をしている。毎年海にきている。来年も再来年もくるのだろうか。海に向かって叫ぶ青年の声を聞いた。おれはツイッターのいいね数を稼いでしまった。海の見える街に住む人はどんな気持ちで暮らしているのだろう。遠くで飛行機が飛んでいる。目を瞑っても消えない光を探している。多分長く書きすぎてしまったけど、これも残しておこう。

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感性のリハビリ

自分らしく生きるのは美しいと誰かが言った、ぼくは自分らしさを全部壊したいのだと思った。その愚かさが君の君らしさだと言われたことがある。この身体の放つ全てのものが自分のものでないような気色悪さが著しく、それを無視して健康ヅラして生きている。ニコニコしながら悲しみは使い古し。あなたの美しさの先に居られなくなった自分の身体は生ゴミのようだが生ゴミではないので自分らしさを破壊しながら生きるをし続けてる。ほんとはもう死んでるのかもしれない。余生って感じもしないから、記憶がないうちに何回か繰り返してるのかも。生きて死んで生きて死んで生きて死んで生きて死んで。不死にも限界があるのは少年マンガのお約束だけど、めんどくさいから飛び降りちゃおっかなって思う。じゃあその前に部屋くらい綺麗に掃除しておこうって思ってまた生活が始まる。身に軋む淀みにもキレがない。つまんない言葉たちだな。五感を拡張して、風の匂いを知ったり空気の味を確かめたり排気ガスを吸ったり、太陽を見たら目が潰れた。あと指の皮を噛みすぎて普通に痛い。こんなことでも自分の中から出てきた言葉だから、残すだけ残しておく。

ひとりセゾン

ブログを読み返してみるとその時に大事だったものがわかるし、逆にいうと大事なものは絶えず変わったり流れていくのだと思い少し切なくなった。泳ぐように生きるのは美しいと思うけど、おれはいつも川底を歩いている。溺れているようなものだと思う。例えば愛についてずっと考えている。物心ついた時から少年マンガで取り扱われていた、愛。愛があれば人は強くなったり正しく在れたりするらしく、人が人でいることの根幹であるかのごとく描かれたそれについて、かれこれ20年以上考えている。なぜなら、わからないから。わからないということは、まだわかっていないのか、もしくはそんなものは無いのかもしれない。それを知る術は私たちには無いので、結局は心一つ、自分が何を想っていたいかだけなのかも知れないなと思う。でも切なすぎる。無について考え、無に帰すのかと思うと、おれは切なすぎる。永遠に身を寄せることが出来ない。例えば私とあなたの間にあった事は永遠かもしれないが、あなたは居なくなるし、私もいつか死ぬ。一緒に居たことは忘れなくても、一緒に見た空は忘れる。その空の美しさは何処へ行くのか。愛を知らずとも、おれは切なさを知っている。変わっていくこと、新たに出会うものと、その先に待つ素晴らしい自分を否定してはいない。過去を必要以上に懐かしむこともない。良いも悪いもなく、ただ、切ないという、それだけ。名前のつけられるものに意味を感じないことも多いが、すくわれない感情に名前があることが救いになることもあるのだな〜と今思ってる。力強く希望を謳うものが五月蝿いなと今は思う。感傷を重んじる必要はなくとも、感傷を覚える自分の心を否定するのは良くないなと感じる。自然体に喜んだり、悲しんだりしていたい。それには強い心が必要だ。10年後だか100年後だかに、全部にありがとうって言いたい。