人生肯定感

身体の一部を失っても人は生きていけるのだろうか。そんなことを考えている。考えすぎて知恵熱が出た。頭が痛い。努力でどうにもならないことって、あるらしい。出来うる限りのこと、全て考えたつもりだったんだけどな。人生肯定感がまた下がってしまった。

悪い予感はいつも当たる。うまくいかない気がすることはうまくいかない。自分のこと、そんなに悪いやつじゃないと思うけど、人生が上手くいく気がしない。だから自己肯定感ではなく、低いのは人生肯定感。

優しさだとか愛だとか、相性だとか救いだとか、何度も考えてきたことをまた考えさせられてしまう。心の数があればあるほど、身体がバラバラになるような感覚がある。

いつだって生きる意味が汚されている。でも俺はもうそれでいいのに、世界がそれを許してくれない。頭が痛い。目の奥が熱い。どうしようもなくどうしようもないのに、生き延びられてしまう予感がある。虚しさも悲しさもいつか風化してしまうこと、それ自体も悲しい。

鉄骨

一睡もできる気がしない。あたまが、からだが、ぜんぶぜんぶ、はれつしそうになっている。人が自殺する時ってこういう時かもしれないと思う。こんな気持ちのまま生きていくなんて、到底できそうもない。実は綱渡りをしているということ、気付いてしまった。少しはみ出したところに死は横たわっている。誰かのことを考える自分が嫌だ。自分のことを考える自分も嫌だ。どこにも行き場がない。どうして、いつもいつも。どうしようもなく、ただ生きているだけ。

光の川

つまらない。希死念慮や絶望をここに記している。自分の心、身体、この部屋。空気が流れている。観察している。何がしたいんだろう。何の意味があるのだろう。早くシャワーを浴びて、早く眠った方がいい。わかってるよ、わかってる。大きく横たわっている、光の川。全ての感情を俺に教えるために世界はあるんじゃないかってたまに思う。そういう生き方をしてきたのは、俺の意思なのか、世界の意思なのか。渋滞ぬけみちなし。もう全部意味なし。明日テロリストになろうかな。これまでの全てを燃やしたい。何よりも大切にしたい。心がふたつある。みっつある。よっつある。それに気付いてから世界はシンプルになった。ただ全部そこに在るだけ。俺もただ、ここにいるだけ。そして生きている。

しっとりとした絶望

心がふたつ、いや、みっつよっつある。嬉しいって思ってるところがある。たとえば好きな人が人生の指標を見つけたらしい。とても喜ばしいことだ。その結果、おれはその人の人生に不要になってしまった。仕方のないことだ。とても嬉しいと思っているのに、身体に力が入らない。頭にモヤがかかっているようで、なのに思考だけはハッキリとしている。別人に身体を乗っ取られたみたいだ。機械のように、煙のように、水のように、炎のように、身体という枠の中で心が絶えず形を変えている。深呼吸をしようと、息を吸う。空気が身体に入っていかない。ああ、これってもしかして絶望ってやつか。こんなにしめやかに、寄り添ってくる。優しい顔をするなよ。心と身体が、どんどん、噛み合わなくなっていく。

東京

東京はうるさい。東京は流れが激しくて、ボーッとしているだけでも気付いたら流されている。俺は溺れるために東京にやってきた。その目論見はかなり成功していて、気付いたら知らないところへ立っている。そんな街は俺に優しい。今おれが地元・北海道にいたら普通に死んでいたかも。あそこは穏やかで、静かで、誰にでも優しい。俺に何も強要しないし、どこへ連れて行ってもくれない。だから簡単にひとりぼっちになれる。この街はうるさく忙しない。明日の仕事のこと、明日以降の予定のこと。やるべきこと。沢山の人がいて、みんなが沢山のエネルギーを俺にくれる。明日もきっと満員電車でペシャンコになって、進まないプロジェクトにイライラしながら、今期の目標を考えて、ラジオの原稿を考えて、歌を歌って、それで。それで。それで。日々は続いていく。俺も誰かの糧になる。俺がいて誰かが助かる。誰かに優しくある。じゃあ誰が俺を助けるのか。俺か。俺のことは俺しか助けてくれない。ああ、結局ここに辿り着く。生きるも死ぬもおんなじだ。だから俺は、勿体無いから、ただ生きている。9年前からこの考えは変わっていない。俺は変わっていない。生きるも死ぬもおんなじだから、やっぱりたまに、死のうかなって思う。

幽体離脱

いつも基本的には悲しがり屋さんではあるけれど、たまにくる本物の悲しみに触れると、ああこれは抗うとかそういうものではないなと食らわされる。そして感情がフリーズして、他人事のように自分の状態を観察するクセがついた。10代、20代の時には出来なかったこと。少しずつ生きるのが上手になっていく。それが何?本当に意味がない。何もかも手放したい。それはわかりやすい絶望とかではなく、本当に虚無だ。もはや苦しみすらない。ただ、もう1人の自分が「この人は死んだ方がいいかも」って思ってこっちを見ている。