小雨が燦々と降る夜はエモい

思うままに綴る詩、もしくは思想

ひとりセゾン

ブログを読み返してみるとその時に大事だったものがわかるし、逆にいうと大事なものは絶えず変わったり流れていくのだと思い少し切なくなった。泳ぐように生きるのは美しいと思うけど、おれはいつも川底を歩いている。溺れているようなものだと思う。例えば愛についてずっと考えている。物心ついた時から少年マンガで取り扱われていた、愛。愛があれば人は強くなったり正しく在れたりするらしく、人が人でいることの根幹であるかのごとく描かれたそれについて、かれこれ20年以上考えている。なぜなら、わからないから。わからないということは、まだわかっていないのか、もしくはそんなものは無いのかもしれない。それを知る術は私たちには無いので、結局は心一つ、自分が何を想っていたいかだけなのかも知れないなと思う。でも切なすぎる。無について考え、無に帰すのかと思うと、おれは切なすぎる。永遠に身を寄せることが出来ない。例えば私とあなたの間にあった事は永遠かもしれないが、あなたは居なくなるし、私もいつか死ぬ。一緒に居たことは忘れなくても、一緒に見た空は忘れる。その空の美しさは何処へ行くのか。愛を知らずとも、おれは切なさを知っている。変わっていくこと、新たに出会うものと、その先に待つ素晴らしい自分を否定してはいない。過去を必要以上に懐かしむこともない。良いも悪いもなく、ただ、切ないという、それだけ。名前のつけられるものに意味を感じないことも多いが、すくわれない感情に名前があることが救いになることもあるのだな〜と今思ってる。力強く希望を謳うものが五月蝿いなと今は思う。感傷を重んじる必要はなくとも、感傷を覚える自分の心を否定するのは良くないなと感じる。自然体に喜んだり、悲しんだりしていたい。それには強い心が必要だ。10年後だか100年後だかに、全部にありがとうって言いたい。

溌剌

どうせ死なんし俺なんか、と思ってきたが案外簡単に死ぬのかもしれない。wowakaさんのことは聴き齧った程度だけど、ぼくが音楽の素晴らしさの端っこに手をかけたあの頃いつも視界の端っこに映ってたし、隣のクラスのすげー良い奴で有名な人気の人が亡くなったみたいな感覚で、めちゃめちゃ他人だし別に悲しくないはずなのに涙が出たりした。いや、どうせ俺は死なんな、この程度の生き方じゃ。同じ土台に立っているような錯覚をするのが失礼だ。誰かに何か与えた分だけ健康になる仕組みはないのかな。出来るだけブログを書こうと思う。やっぱり音楽もちょっと頑張りたい、いや、ほんとはかなり頑張りたい。おれは死ぬんだよ。やっぱり何か残さなくちゃならない。そういう大義名分をとりあえず置いといても、そろそろチヤホヤされたいし。とか打ってたら寝落ちして朝になってた。

桜の木

自分の悲しさや愚かさやくたびれや諦めやその他諸々のダメダメとは関係なく桜はいつでも綺麗だから好きな人みたいだなって思った、好きな人っていつも綺麗に見えるよね、自分とは関係ないところに立ってるみたいで安心するしちょっとだけ寂しいね、特別ってなんだと思う?特別なんて意味あるかな、だって終わったもの全部特別だよ不変だもの、おれは美しさの意味をまだ知らない。というかほんとは何も知らない。深呼吸すると肺と筋肉が動くのを感じる、実は骨もめちゃめちゃ動くってツイッターに書いてた、呼吸なんて何万回何億回とするのに一回一回が特別なくらい大仕事なんだなって思ったよ。全部が全部特別だなんて当たり前だから、もっともっと沢山特別を知りたいよ、人生なんて限りがあるし誰よりも永遠が欲しいし。いつまでも覚えてられるかな、全部永遠に覚えてなくちゃならないのに。おれだけが知ってることは、おれが忘れたら無くなっちゃうじゃん。逆にいうと、覚えてる限り永遠に無くならないんだけれども。特別なことと、特別に扱うということはまた別なんだなって思った今年の春。桜は今日も勝手に綺麗に咲いている、去年の桜にはもう会えないのだけれども。全部流れていくけど、来年の桜がどんな色かも、まだおれは知らないんだ。

土曜日の毒とか

土曜の朝から死について考えていた、というかそれは私個人の内から自然に零れたものではなく、届いたひとつの連絡によるものだ。かつて死んでしまうと言っていた彼女は、いまどんな気持ちで生きて、連絡を寄越してきたのだろうと気になったのだ。上澄みの霞でもいいよ、君が相変わらずなら。最近のテーマは"覚えている"ということだ。ぼくは君が、あなたが、お前が、ダメダメで世界で一番最悪な時にも、君の、あなたの、お前の素敵だったことも最高なとこもちゃんと覚えているから、だから世界から君の、あなたの、お前の良いとこが消えることはないんだ、安心してくれな。そういう気持ちで生きている。そう、俺は死んでなく、生きているそうだ。生き急いでいると死に急いでいるの違いを知っている?もうどうでもいいんだの気持ちが、どうでもよくない身体を疾走らせているんだ。食欲性欲睡眠欲があって、どれかをバグらせているんだ。ねえ寂しいな、君がいないぼくだってずっとぼくだったのに、君を知ってから君のいないぼくは、ぼくじゃないみたいだろう。そういう再構築が重なって、ぼくはぼくになっていくと同時に、ぼくじゃなくなっていく。嘘みたいに生きている。生きていないのかもしれないけど。

離反

誰か俺に美しさを教えてくれ〜〜〜!と思うけど多分知ってるしただ美しく生きる覚悟がないだけ。今年のテーマは解像度。名前の付けられる感情や関係とかじゃなく、全ピクセルを受容していたい。君と手を繋ぐことは「君と手を繋ぐこと」ではない。空気が動いて、温度があって、存在があって、感情があって、その瞬間の一秒一秒が全て特別だということ。そういうことに意識を払えたい。毎日が目まぐるしくて楽しい。目まぐるしくて楽しいが目まぐるしさが楽しいになった瞬間に俺は死ぬ。それは目まぐるしさであって俺ではないからだ。転職して知ったこと。社会の歯車もそれはそれで美しい。ただ俺は俺なので、ただの金属になるくらいなら嵐のようなロマンスで殺してほしい。ズルしても真面目にも時は流れて簡単に生きていけてしまうので、俺は俺になっていく、そのことを忘れちゃいけない。

焦土に風吹く

時も俺も流れる、手にしたものとなくしたものが押し寄せすぎて死の閃きに想いを馳せる。転職しました。毎日楽しいし、自分の意志で生きていく意思が俺にはある。選んだ生活の中で溢れる選ばないに浸るのは意味がないので、地に足をつけて泳ぐ。最近だと中村佳穂さんのライブが良かった。音楽にストイックであることが生活を快く生きることでもあった、つまり音楽が生活である方だった。歌は話すようであればあるほど良い、なぜなら身体や日常の一部であるほど繊細を扱えるからだ。そして歌は伝えるを孕んでいるので。ライブといえばラブリーサマーちゃんのライブを久しぶりに観た。ラブサマの最も素晴らしきは声だと思っていたけど、本当に一番は音楽が好きなことそのものだと思った。多分ずっと良くなっていくし、ずっと良くなっていくということはずっと生活に音楽が在るということで、それは身や空気から滲み出るものだ。それがオルタナということかも知れないなどと思った。眉村ちあきさんのライブも良かった。気付いたら声をあげていた。音が空気を震わせ、地下室を震わせ、そうして自分が震わせられたのだという過程を実感するライブだった。良い音楽は良い。音楽的で良い音楽しか観たくないと思った。身体を持つ。心がある。夜も朝も進む。呼吸をしている。選び続ける。

詩・死・私

おれはおれになっていく、そしてあなたがあなたとして生きれば生きるほどあなたになっていくとしたら、その先には断絶が待っている可能性もあるのだな。今のあなたとの邂逅が、過程の中だけに在るものなのかもしれないのだな。そしてもう会えない人達は、きっとそういうことなのだろう。だとしたらやはりおれは好きな人達への感謝を忘れないし、好きだった人達への感謝を忘れようもない。さいきん言葉が浮かばない。感性が死んでいくのだろうか。忘れたくないと思ったことも忘れて、過ぎていくことを厭わない。それはこの先にあるものが良いものだという確信によるものもあるのかもしれない。良いものが待っている、だから今を忘れていっても構わない。でも未来は未来、今は今だ。から、やっぱり五感を使って生きていきたい。今も過去も忘れたくない。おれは良くなっていく。今はいつか過去になる。うつくしさとは。運命とは。いろんなことをぼんやりと考えて、煙のように宙に消えていくが、愛おしいと思ったものや時間を、もっと大事に思っていきたい。その一歩として、そう記しておく。