プリキュアみたい

10代の頃、インターネットは感情の吐き出し場だった。どこにも行けない感情は全部ネットに吐き出すことで、自分は感情を持っているということの自覚と、他人に見られることで感情の存在を認知されることで意識を保っていた。あれから10年の間にインターネットを汚すのはダサい風潮になって、おれは何も言わん。死にたいとかそういう言葉はめちゃくちゃ陳腐になり、キャッチーになり、こんなにメンヘラという言葉が市民権を得るとは思っていなかった。でも普通に死にたいっす。つまんないことも言いたいっす。ていうかずっとつまんないっす。でも良く生きるために選んできた選択全部、どうやらあんまり良くなかったみたい。わはは。誰かがいないと何もできないし、どこに行ってもおれはおれのままで、つまんないところが洗っても洗っても落ちない。名言が胸を裂くよ、立派に生きてるね。善で目が潰れるよ、きっといいことあるよ。死にたい、本当はこの言葉に、もっと色んな色がついていた。返してほしい、流行らせないでほしい。死にたいとしか形容できない感情の色、いつだってそうとしか言えないそうとしか表現できないところで初めて使う言葉だったのに。身体がたまらない、泥になる。惰性で生きてるって感じする。ぶっ壊れてしまえ、全部。つまんない悪口しか言えない。だらしない言葉選びでよだれを垂らす。死ぬしかないなんてとっくにずっとそうだよ。うるさ。立派な人うるさ。