死ぬをしたくない、生きるをしたい

アメーバ性大腸炎っていう病気にかかってからしばらく経った。ケツからイチゴジャムみたいな血の塊がドバドバ出てくる、ホモセックスでかかる性感染症の一種らしくて医者が怪訝な顔をしてた。ウケる。ホモセックスはしてません。したのかな。記憶ないんだけど。血が止まらないのでこないだ初めて生理用ナプキンを買いました。ソフィがオススメらしいっす。

お腹の痛みは治まったけれど、身体のだるさや疲労は続いている。血を流しすぎて貧血みたいな感じもある。身体がしんどいと心までしんどくなってくるのには本当にまいる、せめてどっちかにしてくれ。バランス取ってほしい。他人の良いところや素敵なところが、だんだん恨めしくなってきて、思い入れのある人にこそ当たったりしてしまい、また自己嫌悪に陥る。悪循環が止まらない。初めて駅のホームに飛び降りようかという思考が頭をよぎった。3歩、足を前に出せば楽になれる。ぼくは人より生に執着しているので、絶対にそんなことを選ばないのだけれど、感触だけで言うならば、その時それは非常に魅力的に感じた。大学の後輩が電話に出てくれて助かった。電話したいが勝った。生きるために他人を使うのが情けないと思った。みんな生きてるのに。他人の生活を、赤の他人のつらさという障害物なんかで邪魔したくないと思った。本当につらい時に甘えたい人なんて、余計に好きな人だから、余計に苦しい。

 

ねえ、明日死んでしまおうかしら?もどかしいこと全ての当てつけに

君の心揺れますか?僕のことで後悔してくれますか?

これはスガシカオのThank Youという曲の歌詞だ。ぼくが死を選ぶ時なんて、誰かへの当てつけに決まっている。だから、あまり選びたくない。ぼくは生きることに執着している。生きるというのは、ぼくがぼくであるということだ。他人によって自分の人生が支配されてしまうのは、ぼくの人生がぼくのもので無くなるということだ。誰かのための自死を、ぼくが自ら心の底から望むのなら、その時はわからないけれど。

14才の時に、他人のために生きたいと思った。いま思うととても小さな出来事だったけれど、自分には生きる価値が無い、だからせめて他人のために尽くそうと、そういう風に思った。でも出来なかった。他人のために生きるなんて簡単ではない。というか、不可能だ。人間は機械ではない。意思に反して嫌なことを続けていると限界が来る。同じことを続けていると自我が芽生えてくる。誰かに深く関わろうとして、中途半端なところで引き返すのは、いつも余計に他人を傷付ける結果となった。結果的に自分に意識的に優しい人が、他人にも優しいのだと気付いた。気付いたけれど、その呪縛は未だにある。

 

茨木のり子の詩に

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

という有名な一節がある。

いかにも名言風な、かっこいい言葉だと思ったけれど、最近よくその意味を考える。

ぼくがぼくであるということ。自責と自省の違い。生きるということ。ああ生きたい。ぼくはぼくで在りたい。死にたくない。死んでもいいと思えるくらい生きたい。言葉で伝えられるものに意味が無いと思うのなら、言葉以外で伝えたい。自分の未熟さが悔しい。悔しくて苦しくて死んでしまいたい。生きたい。生きたい。生きたい。