小雨が燦々と降る夜はエモい

わかってもらえなくてもいい 日々の記録

『大森靖子』を形作る祈りのひとつ

大森靖子さんのライブを久しぶりに観たんだけど嫉妬とか浅ましさとか羨望とか「何でわかってくれないんだろ」とかそういうの全部音楽に溶けて成仏した感じ。嫉妬もできないくらい圧倒的に負けた、すごく良かった。凛として時雨のMissing lingをカバーしてたんだけど嬉しすぎてびっくりしたし、完成度もおぞましいことになっていて本当に感動して泣いてしまった。1点から100点のモノサシを持って観に行ったんだけど普通に最低点でも120点叩き出すみたいなライブだった。ぼくは大森靖子のスタンスや作品やライブや愛や発言全てを愛することが出来なくて、それが多分ずっとコンプレックスだったと思う。普通にかなりこじらせ切ってるから「自分がいちばんわかってるのに」みたいな気持ちもたぶん人並み以上にあるし、そういうところを表に出すのがカッコ悪いっていうのもわかってるし、大森靖子が宗教みたいになっていく(真実はわからないけど、そういう風に見える一面はあると思う)のに我慢がならなかった。だって大森さんはきっといつだって人間として人間のために戦ってきたんだし。大森さんが生き尽くしている。だからただそれを見て、受けてるだけじゃダメじゃん、喜んでるだけじゃダメじゃんって思ってたし、「ただのファン」以上の何かにならなきゃいけないといつも焦っているような気持ちを持っていた。ぼくは大森さんがたまに言う「大森靖子はみんなで作り上げている」って感覚がずっとわからなくて、1日10回くらい、×100日以上経つので多分1000回以上その意味を考え続けてきたと思う。だっておれはおれじゃなきゃ意味ないし。おれがおれとして感動しなきゃ意味ないし。だから今日は良かったとか、今日はあんまりだったなとか、そういうのがないと嘘じゃん、と。全肯定ってなんだよ、と。でもなんか今日、なんだろう、この人の活動の一部に、ぼくが本当に感動したり、羨んだり、応援したかったり出来なかったり、好きだったり怖くなったり、決して綺麗ではいられない色々な想いの中から少しでも少しでもマシなものが、少しでも何かの足しになっていてくれたら、もうそれだけでもういいなと思った。たとえ僕という人間が、存在が、大森さんに嫌われていたとしても、関わりがなかったとしても。ぼくの人間としての器や身体を除いた、確かにあったと思う祈りのようなものだけが、何かになっていたら。そう思った時に、あ、そうか、そういうことなのかなと思った。「大森靖子をみんなで作り上げている」。ひとつのライブを観たひとりの人間の脳内の、勝手な思い込みのひとつかも知れないけれど。大森靖子を形作る祈りの一部かも知れないそれが、どうか「善いもの」であったらいいと思った。