小雨が燦々と降る夜はエモい

わかってもらえなくてもいい 日々の記録

52ヘルツの鯨

更新されるということは言い方を悪くすると過去が汚されるということでもある、特別はずっと触れていたいか何も変わらないようにずっとずっと遠くへ置きたい、永遠はうつくしいけど考え方によってはもう死んでるってことだ、勝手だ。全部は心一つで意味が変わる。愛は憎しみだし、大切は乱雑だ。全ては心一つだからぼくは結果に興味がない。動機にしか興味がない。殺人をしようとして誰かを救ってしまった人と誰かを救おうとして殺人を犯してしまった人が居たとして、多くの人は自分に得や徳や利を持たらす者を賞賛し、災を持たらす者を非難すると思うが、ぼくは後者に同情する。だから敵にだって同情してしまうからぼくに敵なんて居ないしそうなると悪いのはいつもこの世界には自分だけということになってしまう、本物の悪意と悪人以外は。本物の悪意と悪人がこの世に居るのならば。九井諒子の「竜の学校は山の上」を思い出してしまった。もしくは創世のエル。魔王という絶対悪を勇者が倒した後には人類同士の戦争が始まってしまう。だから魔王という存在は憎まれるために必要なんだという物語。人は1人では生きていけないという。それは本当だろうか。140文字で世界を作って神目線になれるツールが生まれてから、寂しさは薄れても孤独は増えたように思う。孤独は1人でいる時に感じるものではなく、みんなが群れているのを見て自分が1人でいることを認識して生まれるものなのではないかと思う。52ヘルツの鯨は生きている。初めから1人なら孤独は感じないのかも知れない。みんな誰かを愛したり憎んだりしている。みんな誰かを愛したり憎んだりしているのを見て、自分には何もないことに絶望している人もきっといる。みんな多かれ少なかれ、誰かに執着している。愛も憎しみも関係がない。自分が居て、誰かが居る。何かを感じる。大切も乱雑も関係がない。嫌われても傷付きたくない。何にも感じないのは機械なのかな。傷付かないのは機械なのかな。おれはおれしか居ない。52ヘルツの鯨は何を叫んでいるのだろう。