小雨が燦々と降る夜はエモい

わかってもらえなくてもいい 日々の記録

ダサい

センスがいいものを好きでいたいけど本当に好きなものはダサい、ダサいものを好きだと言い切れるのはカッコいいことかと思いきややっぱりダサい、なぜならダサいものが好きだから。暮らしの絶望を食べながら同じだけの希望を忘れない少しの前向きさと今を楽しんで生きようという心持ちが現代の流行りだしセンスいいとわかっていても、おれはやっぱり過去に未練も執着もあるし、退廃や死に興味があるし、真実や本質といったあるかわからない概念を知った顔で飲み込みたいよ。最近「君が君でいることがまじ尊い」って言ってもらえて、それはなんてことの無い気持ちで放たれた言葉だったのかも知れなかったけれど、今いちばん欲しかった言葉だったかも知れないからありがとう。二度と変わらないから終わったものだけがぼくの持ち物のような気がする、気がするだけで本当はいちばん遠くにあって二度と手に入らないものなのにね。あの日自分で壊したものが、壊れなかったらどうなっていただろうと今でも何度も繰り返し思い出す。しんどくなったら全然死んで当てつけたいし、出来るだけ沢山の人に泣いてほしい、かまってちゃんだから。別にのんちゃんもそういうダメなところが尊かった訳じゃないだろうけど。

さっき高野京介さんのブログが目に入ってきたから読んだ。「どうせみんな死にます。僕も。逃げても、恥まみれ罪まみれでもいいじゃないですか。自分が誰かの黒歴史だとしても、みんなの大好きな人に拒まれたとしても」という文章、流行りじゃないな〜って思った。流行りじゃないからどうしたんだろう、別にいいじゃんね、心に引っかかったんだから。

さいきん凛として時雨をよく聴き返している。ハンパじゃなく好きだったのに、「どんな音楽好き?」って訊かれた時に答えるとダサいかなって思って言えない。あと「じゃあSiMとかも好き?」って訊かれるのがウザかったのもあるけど。全然違えだろうが。あとTHE NOVEMBERSは確かに好きなんだけど、じゃあART-SCHOOLsyrup16gも当然のように好きみたいなノリにするのやめてください。よく知らないです。

流行ってるものは気になるけどなかなか手を付けられないし、流行りが廃れて2年目くらいにようやく手を付けてみたりする。他人から薦めてもらったものもすぐには受け入れられない。

さいきん愛についてよく考える。無償の愛だとか言うけれど、相手の幸せだけをただ願う気持ちは美しいし尊いかも知れないけれど、自分の存在が無いなら在っても無くてもおんなじじゃないかと思い始めてきた。おれは好きな人に興味を持ってもらえないのはしんどいよ。束縛や破壊欲が愛ではないとも思わないよ。むかし好きだった人に「それは愛じゃないよ」と10年間言われ続けてきた。ある日とつぜん相手の幸せだけをひたすらに願える日が来てから「やっぱり君は私のことが好きだったのかもね」と言われて、ぼくも何かを悟った気でいたけれど、逆にそれは終わりだったのかも知れないなと今は思うよ。「君のことは遺伝子が「お前じゃない」と言っているけれど、君の愚かさを愛してあげられるのは私だけだよ」と言われた。意図や文脈や倫理観なんか関係なく、本当に全くその通りだと思ったし、全てが正しく作動していると思ったあの日はいつものように雪が降っていた。