小雨が燦々と降る夜はエモい

わかってもらえなくてもいい 日々の記録

ひと・コミュニケーション

2/11(土).

名前も顔も知らない人と何かをするという予定が入っていた。池袋で集合し(2人とも遅刻した)、やったことといえば、昼過ぎから公園で酒を飲み、猫と戯れ、デパートの屋上でうどんを食べ、サンバを踊り、サイゼリヤでまた酒を飲み、サンバを踊った。うどんもサイゼリヤもおやつなので、帰ったら鍋を食べると彼女は言って去っていった。あこちすちゃん。素敵な良い生き物だった。また会いたい。

とぼけた顔をしていたけれど、ときたま非常に冷静な発言を繰り返していて、明晰さが伺えた。「雑魚は雑魚らしく傷付いとけよ」っていう言葉が印象に残った。

 

2/12(日).

G大量発生の夢を見て目覚め最悪だった。昼前に起きたら友達の犬くんから連絡が来ていた。共に昼食を取り、部屋へ迎え入れた。夕方からライブだったため、ぼくが練習している間、犬くんは風呂場を掃除してくれていた。15時頃、「また部屋を掃除しに来る」と言って出て行った。それからはまた1人で練習。

夕方からはさいあくななちゃんとミニライブ。ななちゃんはやっぱり凄い。音楽的な音楽とか芸術的な芸術とか関係なく「自己表現をする」ということに完全に振り切れている。今まで何度も人と一緒に演奏をしたことがあったけれど、そのどれとも、明らかに違う感覚だった。

大学時代、軽音楽サークルに所属していた。当たり前だけど、軽音楽サークルに所属している人は音楽が好きで、音楽を聴いてきて、音楽をしたい人達だ。だから当たり前のように、みんな「音楽をしよう」という意識で演奏をする。例えばリズムに合わせようだとか、音程を外さないようにしようだとか、周りの音を聴こうだとか。でもななちゃんとの演奏は、完全に戦いだった。例えるなら、ずっとフリースタイルダンジョンに参戦させられてる感じ。一緒に演奏している筈なのに、彼女は完全にぼくとも対決していた。ちなみにこれは、ななちゃんがリズムを大事にしていないとか、音程をメチャクチャに無視しているとか、そういう意味ではない。楽曲はあるので、もちろんそれを上手に演奏しようとはしている。ただ目的が完全に「音楽」ではなく「表現」なので、上手いとか下手以上の、圧倒的な正しさがそこにはあった。ビシバシと生と空気を感じた。呑まれ尽くした。今回は完全に、ぼくの負けだった。

と、同時に音楽の可能性を思い知った。たった20分弱の演奏で、ぼくはここまで感じ取ったのだ。常識的に考えて、あり得ないコミュニケーションだ。「音楽はコミュニケーションだ」とずっと思ってきたけれど、それを強く感じ取れた瞬間は、実はあまりない。その真価を、音楽の道を進んできた訳ではない人から教わった。非常に刺激的な体験だった。

「表現する」ということに特化した人と対面するたびに、自分のそういう才能の無さに少し落ち込むけれど、頑張り尽くしていないおれに、落ち込む資格はない。と、最近は思っている。なぜなら、「表現の才能」は、色々な才能の組み合わせだからだ。ぼくにしかない才能を組み合わせて、ぼくにしか出来ない生き方や表現が、間違いなくあると思う。別にぼく以外にも。自分の才能をもう全部知り尽くしているなんて、そっちの方がきっと傲慢だと思う。

ぼくは何も知らない。世界のことも、自分自身のことも。一生知らないのかも知れないから、一生自分で遊び尽くせるな。自分だけじゃなく、ぼくがいま仲良くしてる人達はみんな大好き。