memento mori

終わりが来るものに興味がないので、ときたま息が出来なくなってしまう。今日は最悪の日だった、思考とは裏腹に身体が勝手に動かない、悔しくて悔しくて、でも涙も出ない、ぼくはぼくがいつか終わることを知識としては知っている、知ってしまった。

かつては永遠に生きられると思っていたのだろうか、昔ぼくは収集癖があって、好きなものを集めて身の回りを固めるのが大好きだった、今でもそういう節はあるけれど、以前ほどの拘りはなくなった、好きなものを集めても自分自身が立派になる訳ではないということを知ってしまったからかもしれない。
どうにかしないといけないと思う自分と同時に、どうせ終わるから意味がないと考えている自分もいる。何のために生きる。厨二病の代名詞みたいな思考だけれど、中2の前から今の今までずっと考えている。ずっとずっと見えないものを見ようとしていた。
 
運命というものを信じていた、強く強く信じていた。というか信じるというレベルでは最早なく、見えていたのかもしれない。もちろん目に見えるものではないので、物理的な話ではなく、見えていると知っているの中間くらいの感覚で認識していた。
今日、スピリットサークルというマンガを全巻読み直した。前世だの運命だのが絡まる物語で、作者の水上悟志先生は大好きな大好きな漫画家の一人だ。
読んで、いつから運命を認識しなくなったのだろう、とふと思い出して、思い出したということは忘れていたのだ、ということに気付かされた。
みんな元気だろうか、出会ったことが運命で、別れも運命だとしたら、ぼくはそれで何を得て、何を失ったのだろう。答えは風の中。ボブ・ディランがいま世間で話題らしい。
 
知は死らしい、わかんないから生きてる、わかってたら死んでるらしい。酔っ払いの戯言なんだけど、真を突いてるなあと思った。言っていたのは大学の後輩の女の子、凛としている。阿久悠が言っていたような、凛とした女の子。
ヨハン・ファウストは魂と引き換えに、全知を得ることをメフィストフェレスと契約した。
ファウストは魂を捨てたが全てを知った。人は全てを知ることができないから、知るために生きているとしたら、魂を奪われたとしてもファウストは、実は誰よりも幸福だったのかもしれない。
 
ぼくは何を知って死ぬんだろう、風に吹かれて、便利な言葉だ