小雨が燦々と降る夜はエモい

わかってもらえなくてもいい 日々の記録

学問について不真面目な大学生だったわたしがいま思うところを残しておく

ぼくは大学の卒業論文大森靖子さんについて書きました

それはぼく的には「興味があって尚且つそれが研究するに値すると思ったから」というごく普通の理由なんだけど
それを「すごい!」「よくそれで書いたね!」などと言われることに「研究とはお堅く小難しいものだ」的で安易なイメージの浸透と、「研究」という言葉の形骸化を感じます
どんな研究も最初は好奇心から始まるものではないのでしょうか

みんな研究っていったい何だと思ってるんだろう

ぼくは先人たちが築いてきた先行研究を踏まえた上で、現代の人間が現代の視点から研究対象について論じる、それを後世に残すことで文化の発展に繋がるかもしれない原石を増やしていく、それが最終的には社会の発展に繋がっていくものなのだと、大学の4年間の中で考えました
それが実際に役に立つか立たないか、そんなものは後になってみないとわからなくて、ただ何かについて論じて、それを形にして後世に残していくことそれ自体に意味があるのではないかとぼくは思います

だから過去の偉大な文化がいかようなものであったのかを探求する、いわゆる「学問っぽい」研究はもちろん大切だと思うけれど、
現代の私たちがいま身近に触れている文化について探求して、後世に伝えていくのも、研究において普通に価値あることだと思うんだけどな

例えば音楽だと「オペラやクラシックは偉い、Jポップは偉くない」って、まあわからんでもないんですけど
そのどれにも歴史があり、人間が社会の中で文化として生み出してきたものである以上、全ての文化は繋がっているわけで
そんな考えを研究者が持ってちゃいかんでしょ、というのを、ぼくは感じていました

高校生までの国語の問題で、よくあげられる「この時の筆者の気持ちを答えなさい」という設問
「筆者の気持ちなんて本人に訊いてみなきゃわからないでしょ」というのは、ぼくもずっと思っていました
ある作品について何かを考え、論じることの意味、そこに疑問を感じて、ある教授に質問したことがあります
「こんなことに意味があるんですか?」と
「真実は作った本人しか知らないし、その真実を捨て置いて、作者の居ないところであーだこーだと言うのは不毛なんじゃないですか?」と

教授の回答はこうでした
「ただ、論じることそれ自体に意味があるのだ」

つまりどういうことかというと
まず一つ目に
「作者すら気付いていない"クセ"のようなものは、第三者から見ることによってしか明かすことができない」
そして二つ目、これが重要で
「全ての作品は、誰かに見られないと価値がないのだ」ということ

つまり偉大な芸術作品も、誰かが「これは偉大だ」と、それが真実でも真実でなくても「この作品はどういった理由から偉大である」と論じない限り、その作品に価値は生まれなかったのだということです
もう5年以上前のことなので、細部は違っているかもしれませんが、概ねこのようなことを言われたような気がします

話が少し逸れたような気がしますが、つまりひっくるめてどういうことかというと
現代に生きるわたしが、現代に存在する「大森靖子」という作品を偉大だと感じて、それが「いかにして偉大だと感じたのか」を論じることはすごいことでも、また馬鹿らしいことでもなんでもなく、学問の中ではごく普通のこと「のはず」だということです

ぼくはあらゆる芸術作品が好きです
人が生きてきた歴史の中で社会を作り、その中で何かを感じ、それを形にしてきたこと全てにドキドキします
確かに文系の学問は生活に実用的ではなく、そういう意味では無駄なものです
昨今、文系の学問を疎かにするべきだというような風潮があるという噂を耳にしたこともあります
しかし理系の研究が新しい技術を生み出し、物理的に豊かな社会を築いたとしても、その中で生まれてきた文化に価値を見出せない社会は酷く貧しいと思います

これは4年間大して勉強もせず、不真面目な大学生だったわたしが、卒業論文で初めていわゆる「論文っぽいもの」に触れて感じた程度の意見です
なので仰々しいことをつらつらと述べつつ、特にいま何かを研究してる訳ではないのでこれはめちゃめちゃ口だけですね
色々と拙い点はあると思います
ぜひ専門家の方々に「研究とは何か」、意見を訊いてみたいものです