ワンダー

肉体に宿る精神、正しい身体に宿る精神以外を信用しないと言った人のことを心から信頼している。習慣は魔物だと大宰は言った(記憶があるんだけど検索しても全然出てこない)。簡単におかしくなったり正しくなったりするから、本当の自分なんて薄氷の上に立つような曖昧さしかない。というか全部俺だ、覚悟しろ。貴様に猫の陽だまりより暖かい優しさも、刺々の沼よりも険しい不快さも与えてやる。俺という点が在るのではなく、俺という幅が在るのだと思うと少し楽になった。振れ幅が存在だと言ってくれた妖精さん。でももういいのだ、おれはおれの意志で存在していく。またいつかあなたと音楽の話ができますように。

夏のネオン

おぞましい夢を見た。日常は変わりなく過ぎているのに、全てが根本から破壊されるような夢。あまりのリアリティに、そういうものかと受け入れて暮らしていた。地獄だ。世界の終わりが美しい世代だけど、ああいう終わり方は最悪だった。目が覚めた時に夢だとわかったけれど、いつだって本当にああなってしまう可能性があるから安心できなかった。外に出ると夏の匂いが鼻孔を膨らませる、暖かな日差しとこれからの季節を想うとやっと少し安心した。夏になりたいと思うが、夏になってしまったら夏のことはわからなくなってしまいそうだ。身体があるから季節を嗅げるし感じられる。私が私だからあなたの輪郭がわかることなんて当たり前なのに、ひとつになることを望んでしまう、誰かになれたならと思ってしまう。心配な人に出来ることは何だろう。手を伸ばしてくれない人のために出来ることはない。いま出来ることとやるべきことは見えている。生きるということ。私にとっての、生きるということをする。

夜をはさんだ向こう、とおいほしのひかり

良いと思ったものを良いと思う、悪いと思ったものを悪いと思う、それを端的に続けるのは機械的なように思えるが感性を大事にするということなのだろう。1年に数回しか連絡を取らないが大好きな人がある。数十分の電話だけで安心するし、一等賞だと思う。ただそれだけ。私のあなたへの永遠の信頼は保証されている。永遠なんてわからないけど、直感しているのだ。100年分の信頼をありがとうと思う。先日、知り合ってからは長いが2人で会うのは初めての友達と遊んだ。細かな所作や爽やかな気遣いが心地よく、多分ずっと好きだろうと思った。話すたびに好きと言ってくれる友達もいる、ぼくも好きだよ。数年会ってないが思い出した時に連絡をくれる人がいる、ぼくもよく思い出すよ、君が生きていてくれるだけでありがたいよ。連絡を取らなくなった友達がいる。悲しく苦しいが、喚くよりいつかまた交わることを祈りながらしんしんと生きる方が美しいということを本当は知っている。おれは頭がいいから本当は全部知っているし、愚かだからうまくやろうとしない。キャパシティが小さいのにとにかく全てを知ろうとする、かき集めようとする、溢れる。偶然溢れた中に大切なものが混ざっていたりもする。もう消したと思っていた数年前に付き合っていた人のラインが端末から偶然出てきた。驚いて、ちょっと連絡を送ってみたら既読がついてそのままになった。知っていたけどもう二度と会わないのだろうと思った。知っていたけど、知っていたのに。ダサいことばかりしている。美しいことも知っている。憧れはもういい、そろそろ行かなくちゃ。

蒼く光るもの

もう逃げられない、そう思った。わかってしまった。頭がいいから何年も前から本当はわかっていたこと。美しさも尊さも光も運命も願いも祈りも、本当は知っていた。わかりきっていた。ただどうしても信じたくなかっただけだ。この身体の輪郭を捉えること、それは失うことと同義だ。永遠なんてない。本当にない。全部死ぬ。本当に死ぬ。消えて無くなる。大好きな気持ちも大好きな人も大好きな時間も、全部消えて無くなる。祈りだけが残る。祈るとは何か、知っているか。私にとっての祈りはただ一つだった。おれを救うのはいつだって誠実さだった、それは行為の話ではなく、その人がその人であるということ、あろうとすることだ。ずっと嫌だったけど、そっち側へ行きます。さよなら愚かさ。さよならぬるい風。蒼く光るその海に沈む。生きるということ、藍を追うということ。なんで誰も知らないのさ、なんでぼくだけが知っているのさ。もう逃げられない。ぼくだけの光。

プリキュアみたい

10代の頃、インターネットは感情の吐き出し場だった。どこにも行けない感情は全部ネットに吐き出すことで、自分は感情を持っているということの自覚と、他人に見られることで感情の存在を認知されることで意識を保っていた。あれから10年の間にインターネットを汚すのはダサい風潮になって、おれは何も言わん。死にたいとかそういう言葉はめちゃくちゃ陳腐になり、キャッチーになり、こんなにメンヘラという言葉が市民権を得るとは思っていなかった。でも普通に死にたいっす。つまんないことも言いたいっす。ていうかずっとつまんないっす。でも良く生きるために選んできた選択全部、どうやらあんまり良くなかったみたい。わはは。誰かがいないと何もできないし、どこに行ってもおれはおれのままで、つまんないところが洗っても洗っても落ちない。名言が胸を裂くよ、立派に生きてるね。善で目が潰れるよ、きっといいことあるよ。死にたい、本当はこの言葉に、もっと色んな色がついていた。返してほしい、流行らせないでほしい。死にたいとしか形容できない感情の色、いつだってそうとしか言えないそうとしか表現できないところで初めて使う言葉だったのに。身体がたまらない、泥になる。惰性で生きてるって感じする。ぶっ壊れてしまえ、全部。つまんない悪口しか言えない。だらしない言葉選びでよだれを垂らす。死ぬしかないなんてとっくにずっとそうだよ。うるさ。立派な人うるさ。

もうこれ以上生きれない

夜をシーツでくるんで、なんてありきたりなフレーズが目に残っている。夜の中で夜を捉えることも、その中に立つ自身の肉体に意思を向けることも久しくおこなっていない。もう手遅れ感があるから、死んでもいいのかもしれない。前向きに生きている身体と相反して、心はずっとあさっての方向を向いている。来週のこと、来月のこと、来年のこと、10年後のこと。そんなのわからないと嘯きながら、本当はよく考えていなかったのかもしれない。誰の邪魔もしたくない。誰の美しさにもシミを残したくない。助かっているフリをするのも嫌になってきた。いつもありがとうって思っている。それはなんでかというと、ありがとうと思わないとならないからだ。誠実さが手に負えない。感情の形を掴めない。ライフイズパーティという曲が好きだ、だってそんな言葉ずるい。捉えないでよ。言葉にしないでよ。他人の言葉に救われたりなんかしたくなかった。自分のもの以外に救われるのはいやらしい。消費しかできない。大事にするってなんだ?Brokenという曲が好き、とても素直だから。おれは知人が自殺未遂とかするの嫌なんだ、お前なんかよりおれの方がお前の美しさを知ってる。馬鹿にしやがって、と思う。死んだ方がいいのはいつだって俺の方だったのに。

いつだって誰かを何かを嘘を本当を

悲しみは変わらず横たわっていたとしても、とりあえず置いておくのがとても上手くなった。見つめても仕方のないもの、作曲はもしかしたら唯一それを見つめていてもいい瞬間だったのかもしれない。自分の感情は自分しか知らず、自分が死んだら初めから無かったことと同じになってしまうから、自分だけは全部覚えていなくちゃ、そんな気持ちで自分の感情に執着を続けていた、のだと思う。暇だったのだと思う。今や覚えていられない、あまりの情報の量についていけない。日々が虚しく過ぎる、そのたびに、自分が今日そんな日々を選んだことを責めるが、それも後回しにして、ページがめくられる。積み重なっていくめくられない感情のページ。悲しみに目を向けると足が止まってしまうから目を背けるけど、だからといって足を進めるわけでもない。泳ぐように生きる人に惹かれ、そのたびに溺れるように生きる自分のはしたなさに辟易する。ねえ、選ばなくてはいけないのだろう。これまでも選んできたけど、あまりにも愚鈍なんだ。深い感情は胸が痛いけど、浅瀬で感情の波を遊ぶことは、だらしのないことだ。聡明とか光とか美しさとかそういう言葉を口に出すのが恥ずかしい。好きって知ってる?嫌って知ってる?言葉って知ってる?心って知ってる?知らないと言い切ることもできない、多分私はどれも持っていないから。