クラシカル

年が明けてもう何日も経ってしまった。毎年この時期には1年を振り返っているので、今回もしたいと思っていたが月日はあっけなく過ぎてしまった。でもやる。さて昨年はどうだったかと思いブログを遡ってみると、思ったより記事の数が少なくてあっさり遡れてしまったことに少し驚いた。ちなみに昨年は愛についてよく考えた年だったらしい。昨年、というかもう一昨年だけども。ややこしいから年末というテイで話を進める。さて、愛。確かにそうだったように思う。では今年は?今年は掴みかねる。でもそうだな、自分の輪郭に対して自然に向き合えた年だったかもしれない。人生で最も力みが少なかったように思う。頑張ったり、頑張らなかったり。言い換えると、少し怠惰だったかも知れないけれど。でもその分、視野を広げられたというか、周りを見れるようにもなったかも知れない。社会という場での自分の立ち位置、そして周りに居てくれる人。昨年の抱負として、他人のことを考えすぎたから今年は自分のことをもう少し考えたいというのがあったようだが、案外それは叶えられたのかも知れない。じゃあ次の年はというと、もう少し音楽を頑張りたいなと思う。ああ言っちゃった、書いちゃった。これで頑張らなかったら来年このブログを読み返してちょっとつらくなるやつだ。でも本当にそう。沢山ありがたかった、CDも作ったしね。あと人に優しくする、おれは元々優しいが、より意識的に優しくする。人は意外に繊細だし傷つきやすいということを忘れない。あとものを減らす、大切なものを意識する。過去をカテゴライズしない、未来に前向きになる。良くなっていく。おれは良くなっていく。あと新しいことも始める。ラブだ。これはもうラブだ。そうやって素晴らしくなっていく。今年(来年)もよろしくお願いします。

嗚呼、永遠

帰りたい過去なんて本当に無いのだけれど、過去のシーンを見てみたいと思うことがある。でも見たところできっと後悔や口惜しさが先立つだろうから、二度と交わらないのが正解なんだろうなともなんとなく思う。まあそもそも、過去を見たりなんて現代、出来ないけど。もう会えない人に会いたくなることは沢山ある、でも今その人に会ったとて、かつてのその人ではないんだろうなあ。そしてかつての自分でもないから、本当にもう過去は無くなってしまった過去だ。どうして人は去り行ったものを美しく感じるように出来ているのだろう。人は、というか自分は、だけど。でもそういった創作物や諸々が存在することから、人は、と広めに言ってもまあいいだろう。昔が楽しかったから今は楽しんじゃいけないとか、今は楽しいから過去のことを想ってはいけないとか思ってたけど、別に今が楽しくてもそういう気持ちになることはあるね。それを知ったぼくはどこにでも行ける。どこにでも、行けてしまうのだ。永遠が欲しいとずっと思っていたけど、永遠は作り続けなきゃいけないらしい。青春なんてなかったし、青春は死んでいくから、毎日を大切にしたい。そのやり方もわからないまま、また夜更かしを通り越して朝になってしまった。美しさも知らない奴、というカネコアヤノの詞が、最近やけに頭にこだまする。美しさも知らない奴。おれはおれの思う美しさのために。そう思いながら半身が腐っていくことに、見て見ぬフリをしている。流れ出る思想とすら呼べない体験と体感の残滓をブログに残し、社会と感性の隙間を小賢しく泳いでいく。永遠に生きてはいけないから、ぼくらはいつまでも黄昏た。限られた時間を垂れ流すのが得意なぼくの無為がどうか、どうか少しばかりでいいので祈りを含んでいますように。

なあ、友よ

27才になった。昨年の誕生日は何をしていたかとブログを読み返してみたら、体調を崩して病院で喘息の診断を受けていたらしい。今年はたくさん祝ってもらった、本当に感謝。いや、昨年も祝ってはもらったか。ありがたい。ぼくもみんなが生まれてきてくれてほんと感謝してる。お婆ちゃんから手紙が来ていて、宛名が「私の一番の孫」になってた。嬉しかったけど、一瞬、よしながふみ先生「愛すべき娘たち」のシスターになった子を思い出した。でもうちのお婆ちゃんは最高。それは間違いない。

 

アメリカという国があるらしいが、行ったことないのでしばらく無いということにしていた。今も行ったことはないけど、あるらしいということを今は知ってる。それが良いことか悪いことなのかはわからない。わからないというか、決めるんだろうと思う。おれは良くなっていっているから、きっと良いことだ。というか、良いとか悪いとかでもないのだろう。変わっていく。あの頃の自分が持っていたものを持っていないし、あの頃の自分が持っていないものを持っている。ただ、目に見えないものをちゃんと信じようとは思う。良い流れに乗る。宇宙の風とか。

 

ボヘミアン・ラプソディをちひちゃんと観に行った。Queenの「We Are the Champions」という曲はサビだけ知っていて、「俺たちが勝者だ」なんて、なんて体育会系的で強い歌なんだと思い、苦手意識があった。でも映画を観てからだと、哀愁と鈍い覚悟みたいなものを感じて、良い曲だと思った。「俺たちは勝者だ、なあ友よ」。そう思わないと、生きていけないよな。負けたり勝ったり、なんだかよくわかんないことにもなるけど、でもそうだよな。勝ち負けとかじゃないのかもしれないけれど、俺たちは勝者なんだろう。そう思おうとする気持ち。単純な勝ち負けで勝った者という意味以上の、もっと絶妙で曖昧なものを、その言葉に感じた。

 

なあ、ぼくは生きていけるだろうか。別たれた人とはもう二度と会えないのだろうか。今居てくれる人達に会えなくなる日が来るのだろうか。生きるってなんだろうか。どうせいつか死ぬんだから、出来るだけ長生きすることを目指すだけの人生なんて、終わってるようなものだと思う。でも永遠に生きていたいな。そろそろ諦めてきたけど。夜型になった身体をどうにかしたい。

オン

感傷は流行りじゃない。失った夢だけが美しく見えるのは何故かしら?と松田聖子は歌ったが、それはある種の永遠だからだと思う。失ったものは永遠に形を変えない。なぜならそこに無いので。永遠に変わらないものをぼくはずっと探してきた。失ったものは美しく見える、けれどももしそれが美しいと感じる理由が「失ったから」という理由のみによるものだとしたら、そんなことは馬鹿げ尽くしている。あなたの魂の形を忘れない。そこにあった温度を忘れない。澱んだ暗黒を忘れない。光の言葉を忘れない。そしてせめてあるべきものが望まれる形で収まっていてくれとただ祈る。ぼくの身体や思想など、光の前では何の意味もない。愛は祈りだとしたらぼくは愛を持てているだろうか。愛は呪いともいうが、誰かをきちんと呪うことが出来ていただろうか。きちんと喜んだり、きちんと悲しんだり、きちんとしていきたいと思っている。人に言えないこともある。本当はそれも嫌だ。全部誰かにあげようなんてもうぼくには言えない。ぼくはぼくをもってしか、人と関われないのだから。光あれ。光、あれ。

このよのさみしさ

静謐という言葉が好きだ、それは透明にも似ている。身体が透明になる瞬間がある。それは孤独に似ているのだけれど、寂しくも悲しくもなく、それでいて寂しくも悲しくもあり、なんというか「完璧な孤独」という感じ。あの一瞬のために生きている。2年前、ひとりで京都の街をぶらついた。山梨の街をひとり歩いた。知らない街、空は一つのはずなのにまるで違うもののように見える。そう、東京に住み始めた日もそう感じた。そういうことに気付いた時に、ふと身体が透明になる。意識が天国へ行く。宇宙になる。でも足は地を踏んでいる。君に会いたい。君に会いたい。君に会いたい。昨日までのぼくも昨日までの君も、もうどこにも居ないから、いつだって新しい人に出会う。さみしいな、これからも続いていくということだけが浮いている。毎日生まれ変わっているというのに。さみしいな、簡単に簡単じゃなく生きていけてしまう。

うつつ・うつろ

もう愚かさに執着する必要がない、私の愚かさはあの日の銃弾のような言葉を信じるためにあった。もしくは私の過去が私を愛しんでくれたことを信じるためにあった。さよならばかりの人生だったが、いつかは自分の人生にさよならする時がくる。その時、自分が思い出すものは、失ってきたものばかりのような気がする。それはこれまでもずっとそうだ。今あるものよりも、失ってきたもの、失いそうなものばかり思い出す。流行じゃない感情だからといって、すぐに美しくなれるわけではない。これは厳然たる事実として、その通りなのだから、しようがない。その在り方を善しとするかどうかは、また別の話として。

巷では愛という言葉が横行する。私はその言葉があまり好きではない。正確にいうと、その言葉自体というより、その言葉のそういった在り方をあまり好ましく思わない。私の知る言葉のうち、最も外側ではなく、それが発せられることとなった起点や内実の方に、その意味性を依拠する言葉だからだ。一対一で、その言葉が発せられた瞬間から遡って、なぜその言葉が発せられたのかを含めて両者が共有して、初めて意味を持つと思っているからだ。だからひどく個人的で、汎用性のない言葉だと私は思っているわけで、横行するという在り方それ自体が、私の思うその言葉の存在性に相反しているというわけだ。いっそ、そんな言葉なくなってしまえばいい、と思うことがある。あなたがかっこいいあなたがかわいいあなたがすばらしいあなたがすてき。私はただその一瞬その一瞬を掴んで、新しい気持ちで伝えていきたいと思う。名前はまじないで形だから縛られる。私は形式が苦手だ。いつだって水のように、炎のように在りたい。カンフーでも習おうかな…。

生まれた土地に帰ってきている。窓が厚い。かつて自分の部屋だった部屋のあまりの本の多さにたじろぐ。ほとんどが読まれて、自分の頭の中に入っていると思うと少しだけ恐ろしい。この部屋で育ってきた。この量の本を持っていけないということは、いつか捨てることになるのだろうか。思い出がたくさんあるから切ない。終わりばかり気になる。