よわい気持ち、あわい愛

台風の夜にしにたくなってる、街は静か。五年前の曲を弾いて、四年前の気持ちになっている。この街は優しくも酷くもない街だが、ただ勢いと速さに流されてゆく。自分の信条を謳う際に、誰かを責めたり傷つけるやり方はしたくないなと強く思う。しかし感情は何かを受けて弾けるものだし、無意識や無自覚が強く作用する領域の話でもあるので、難しいかもしれないが。それでもそう、強く願う。恋とか愛とか本当、かなりどうでもいい。「これだった」とか「救われた」みたいなそういう強い気持ちもかなり要らなくて、ただいいなと思ったこととか、愛おしいと思った瞬間とか、点。いっこいっこ、いっしゅんいっしゅん、何かふとしたことを感じて、それを大事だと思えるものごとが本当は欲しくて、でも永遠は甘美だから油断するとすぐ信じようとしてしまうね。あなたとわたしが一生続かなくても、(ここでいうあなたとは、あなたでもあるし世界でもあるしありとあらゆる対面するものごと)、本当はよかったし、終わったことも始まってないこともあまねく等しい。く、捉えたい。台風の夜にしにたくなってる、夏。さようならの気持ち。過去とか未来とかない、地続きの百年がそこに横たわっている。君のいない世界が、君の住む国の中にうごめいている。そしておれは無職。26才の無職。

インスタレーション・センス

美しいってことは孤高ってことで、孤高ってことは傲慢ってことだ。すぐに愛という言葉を使う奴は信用できない。誰のどんな哲学を聞こうと、信用ならない。世界中の酸素を集めて燃やしたら、どれくらい燃えるだろうか。あなたに会えない日々が500年続いた。あなたに出会ってから1000年経った。人はいつか死ぬ、ひとはいつかしぬ、ヒトハイツカシヌ。なら人でなくなればいい。人間であることで保たれる美しさなんて、おれはもう要らない。人はいつか死ぬ。思い出はいつか忘れる。消えないものは消える。不滅のものはなくなる。悲しみすらいつかなくなるのなら、喜びよりずっと悲しみの方が強かったから、だから消えないものを求めるのなら、自然と悲しみに惹かれてしまうのは、至極当然のことだろうと思う。センスがない。流行りじゃない。古くさい。感情も古くなるらしい。ダサい。今は希望が流行りだよ。賢いが流行りだよ。愚かさはオワコンだ。なんだそれ。そんなのもう人間じゃないよ。ずっと美しくいられるだなんて、なんて羨ましい。

バーモント

昼間に飲んだ缶ビールで少しフワッとした身体で夜の街を歩く、静かな空気に包まれて、当たり前のように自分は一人だったと思い出す。思い出すということは忘れていたということで、自分は自分を忘れるよう仕向けるクセがある。本当に素敵な人にばかり恵まれて、毎日誰かかんかと居たり、誰かかんかのことを考えたり、誰かかんかと話したりしていると、誰かのことで自分の輪郭が曖昧になっていって、それは楽しいことだけど気持ちの悪いことでもあって、ああ、随分マシになったと思ったけれど、自分は自分のことを傷付けたいだとか、消したいだとか、そういう気持ちがあるんだと気付く。「そんなことに使われるなんて誰かもいい迷惑だよな」なんて自己嫌悪に陥ったこともあったけど、少なくともその時はその誰かのことをちゃんと大事にしているし、一緒に楽しめていると思うから、そのうちやめた。やめたやめた、どんどんやめていく。毎日弾いていたギターも毎日は弾かなくなった。目に見えないことに想いを馳せる時間も減った。といってもギターは触るし、減った時間は無くなったわけではない。でも、やめた。やめたようなものだ。生活の一部、身体の一部、魂の一部。そういうところからは抜け落ちた感覚がある。生きれば生きるほど自分は自分になっていく、それと「ありのままの自分」というもののつまらなさ。その狭間に生きている。「しないではいられないことをし続けなさい」と水木しげる御大は言ったらしいが、そんなものはない。そんなものがない人は、ただ呼吸だけをして生を消費していけというのだろうか。そんなことを御大は言っていないとは思うけれど、おれは生きている。生きているから、やはり「しないではいられないこと」でなく「した方がいいと思うこと」をやらねばと思うよ。未来は不安だが、やるしかない。まだ生を許されているのだから。

シの夏

平成最後の夏などと言うが、今のところ記念すべきような夏イベントはおこなわれていない。最後の夏と呼ぶにふさわしく思い起こされるのは2年前の夏。もう二度と来ないだろうと確信を持って言える季節なんてなんて奇跡なんだ。それを誰かと共有していたなんて。むせ返る匂いは夏としか呼べない、名前より実態が先に来ている、夏以外ではない時間。Qomolangma  Tomatoのライブを下北沢で観た、あれから活動休止が決まって、決まってから尊さの価値が体内で上がるなんてズルだ。でもそういうものだ。感傷でもなんでもなく、終わりに近いものはそれだけで尊い。だって終わってるんだから。かけがえがない。掛け替えがない。この世にもう存在しないのだから。

でもそんなこと言い出すと今この瞬間から全て二度と来ないので全てがそういうものじゃないかという論理になるが、体感の話だ、体感の話だし、でも別にそういうことでもなんら問題はない。息をしている。息をして生きて死に向かっている一瞬一瞬、ほんとは全て愛おしいはずだ。だから感覚を拡張して、今の尊さを胸いっぱいに吸うべきなのだ。そういう季節だ、きっと夏は。終わりと始まりが同居する季節。細胞の端々まで夜を染み渡らせろ。久しぶりにブログなんて書いたな

儚さ

なんだか泣きそうになってしまった。いつかぜんぶ消えてなくなるんだなあ、というか生まれた瞬間にもう全て消えている。覚えているというだけで本当はとっくに消えている、だから忘れても忘れなくても本当は一緒なんだ。儚さに美しさをおぼえる生物だったのか、儚いから美しく思える生物になったのか、きっとどっちも正しくてどちらも間違っている。どちらとかでなく輪郭の介在しない曖昧な合間に存在はあるのだ。そう考えていくと、あなたの血液が温度を持っていること、毎秒震えていること、消え続ける世界に熱が生まれ続けていることの全てが奇跡に思えてしまうよ。

ソラニン

「終わりがあるから美しい」みたいなの、あれずっと理解できなかったんですけど、そうじゃなくて全てのものには終わりがあるから、終わりを儚むだけでは寂しいから、せめて美しいと感じようとする心意気のことなんじゃないかと思い始めた、とTwitterに呟いたら1いいねだったのでTwitterはクソだと思った。というのは4月15日のこと。これまでの人生の色々が一瞬で繋がって、急に理解が降ってくることがある。もう1ヶ月経ってる。忘れたくないこと、覚えていたいこと、どんどん流れていく。むかし記憶力が自慢だったからメモする習慣がなかったの失敗だったな。まさかこんなに覚えていられないなんて。楽しそうな人が憎らしく思えてきたらいっかんのおわり。君に会いたいよ、滅茶苦茶にするために。君に会いたくないよ、救われないために。二度と会えない人はもう死んだ人なのに、いま生きているぼくは今まで出会った人たちによって形成されている。気が狂っている。真夜中、いつか死んでしまう両親や祖母のことを想って気が遠くなった。世界から剥がされていった。お先真っ暗な時は、駅のホームから一歩踏み出した未来の方が明確で、ただ明確であるという一点において魅力的に思えてくる。頭は冴えているのに何をする気力もないような、それ故に生きているということそれだけをただ全身で感じられているような、水面ギリギリのあの感じ、宇宙に繋がっていたり、透明だったりする、あの感じ、あの感じ、あの感じ。さよならだけが人生なら、あなたは今も人でいるのでしょうか。

食傷

大事なものなんて要らないな、大事でも大事じゃなくてもどうせいつか死ぬんだから永遠に大事にする方法が未だ見つからない、そうするとただ身が振り回されたり心が重くなったりするだけなので大事なものなんて本当に余計だと思う。自分が心地いいと思える程度の物持ちで居たいとゆう人のことを思い出す、ぼくはぼくの持ち物が心地いいという考えを持ったことがないと思う、いつまで、いくつまで、出来るだけ持ち切れるかどうか、こぼれていくものも手に余るものもどれだけ持ち切れるかをいつも考えてきたように思う。部屋に積まれてある物々も一見すると不要のように感じるのに、いざ選別しようとするとどれも捨てられないと思ってしまう。物だけじゃなく、記憶や思い出も。ぼくしか知らない感情、ぼくしか知らない世界に意味はない、ぼくがいつか消えて無くなる以上は。あなたの声をぼくは忘れない、それだけで何か出来ると思っていたけれど、それすら虫のような小ささのちっぽけなエゴだとすると、何が残るんだろう。優先度が低いというだけで、今すぐ死ぬ、は選択肢の中にいつだって存在している。こういった日々と思考を記し残すことも食傷気味だ。