ミッドナイト

夜はなんにもなくたってカナシミが寄り添ってくることがあるけど、それで自分は自分なんだと思って安心することもある。友達が「可哀想って思われるのがどうしようもなく嫌だ」と言っているのを聞いて、自分はどうだったろうと思い出した。ぼくは可哀想だと思って欲しかった。こんなにマトモじゃないのに、ちゃんと学校に行けて、ちゃんと卒業して、ちゃんと就職して、友達も居て趣味もあって生活が出来ていて。誰か可哀想だって知ってよ。どうしようもなく染み付いて取れない悲しみとか、剥がれない暗黒とか、流れ込んでくる夜とか、生臭い醜さを抱えて生きていくしかないことを、その絶望を、誰か知っていてよ。そう思って生きていた。「病名でもついたらいじめられないし、もう少しは楽なのかな」andymoriが歌うそんな詞に、2cmくらい救われたりした。むかし付き合っていた女の子は「可哀想だと言われたら、自分がいま可哀想なんだと知ってしまうから、言わないでいて欲しい」と言っていた。色んな人がいるなあ。色んな人がいるねえ。

澱みを負う

人間が持っているもの、目、鼻、口。耳に皮膚。感覚器。光は目で見るし匂いは鼻で感じるし味は口で味わうし、耳であなたの声を聞いて肌で体温をおぼえる。それだけだろうか。おれは魂の匂いを知っている。緑色の夜を知っているし、黒く震える声を知っている。かつて不幸になりたかった。幸せになってはいけないと思っていた。もっと言うと、幸せになるためには、まず一生分の不幸を背負わないといけないと思っていた。だから一緒に不幸になってくれる人をずっと探していた。厨二病の代名詞のような話だけれど、本当に本当に、そうとしか言えないくらい、そういう人を探し求めていた。「誰かを傷つけた分は、誰かを救うしかないよ」その言葉は柔らかかったけれど、決して甘くはなかった。いま、誰かを救えてるだろうか。もう4年も経つのか、あの夜から。「出来るだけ苦しんで死んで欲しい」と言われたことがある。とてもよくわかったし、死んであげられないことが申し訳なかった。だっておれが死んだら死んだで、その人は苦しんだろうから。死に等しい枯渇を長らく味わった。あなたの言う通りの結果になったし、復讐はもう充分遂げられていると思うから、安心して欲しい。あなたが忘れても、おれは一生忘れないだろうし。

誰かのために生きる、ということについて考える。そのためには自分が自分になることが必要だと知った。絶対にもっと優しくなる。復讐ではなく、敵のあなたの呪いの残滓も引き受けるために。おれは優しくなる。どんなに失敗を繰り返しても、その気持ちは剥がれないだろうと思う。

3月のそういう空気

昨日行ったライブが凄く楽しかった。Utaeさんと神様クラブとCity your cityを観たんだけど音楽が鳴ってる間ずっと踊りが止まなかった。おかげで足腰がペキペキになってる。出演者とお客さん合わせて半分以上くらいがなんか偶然知り合いで、音楽も最高だったんだけど、東京来てからこんなに沢山の人と出会ったんだなぁと思ったら果てしなくなってしまった。なんかあんまり生活がうまく行ってないなと思うんだけど、振り返ったらなんだか思ったより道ができていた。未来は恐ろしいし不安だし、進めてる気がしなくたって、いつだって振り返ると残ったものがあるのだと思うと少しだけ安心した。少しづつ最高になろうと思って、最高の人達とたくさん出会っている。自分だけがつまんないまんまじゃ申し訳ないから、何か頑張りたいなって思えるのはけっこう良い人間関係なんじゃないかと思う。みんなやさしい。すごく良い。

楽しかったなあ。

帰りは長谷川白紙くんとゆめのちゃんと3人で帰った。ゆめのちゃんが去ってから白紙くんと2人だったんだけど、2人になった途端になんか普通に照れて顔が見れなかった。感じ悪いと思われてなきゃいいな。

 

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先週の木曜日には、川本真琴のライブを観た。

川本真琴るろうに剣心のオープニングだけ知ってて、父の友達がくれたカセットテープに入っていたそれを何回か聴いていた。音楽をちゃんと聴き始めた高校生の時にTSUTAYAでファーストアルバムをそんなに期待せずに借りて、一曲目から、良いんじゃないか???って思ってたらそのままアルバムの最後の曲まで全部良い曲で終わって、静かな衝撃だった。岡村靖幸がプロデュースしたということで発売当時は話題だったようだけど、そのとき岡村靖幸の事あんまり知らなくて、2曲目の「愛の才能」の後ろで「ベイベベイベ」うるさい人が岡村靖幸なのか〜って印象しかなかった。

タイムマシーンという曲が好き。「タイムマシーンがいつか出来たらもう1ッコのふたりに会いたい/あなたとあたしはいったい何処へ向かう途中だったんだろ」って歌詞を聴いた時、本当に衝撃だった。タイムマシーンって、過去に戻るもので、何かをやり直したりするのが定番の使い方だと思ってたんだけど、もう1ッコのふたりを見に行くんだ、と思って。でもそもそも多分、この曲の主人公は、時を戻しても上手くいくなんて思ってないよな、と思って、すごく切なかった。この後「いつまでも終わらないような夏休みみたいな夕立だね」なんて続くんだ。終わってほしくない気持ちを「夏休み」に例えるなんて、クラクラしてしまう。「終わらない夏休み」も「タイムマシーン」も、ぜんぶ願望なんだ、叶うわけが絶対にない。なんて見事な歌詞だろう、と思った。

そんな川本真琴がビッグバンドを組んで、しかもTHE NOVEMBERSと対バンなんていうから、観る前からもう、すごく楽しみだった。

THE NOVEMBERSのボーカルの小林祐介は、川本真琴のファンだったらしくて「あのとき助けられた亀です、みたいな気持ちだ」って言って笑いを取っていたけど、すごくわかる、と思った。川本真琴はぼくが聴き始めた時には活動縮小していて、過去の人、みたいになってたから、まさかこの歳になってライブで観られるなんて思ってなかったんだ。

「タイムマシーン」はやらなかったけど、同じくらい好きだった「やきそばパン」をアンコールの最後にやってくれて、めちゃめちゃ嬉しかった。いちばんのヒット曲の「1/2」はとても落ち着いたアレンジになっていて、それも良かった。またライブやってくれないかな。CDも出たら買う。

そうそう、スカートの澤部さんがシークレットゲストで出てきたけど、デカすぎて笑った。

 

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こないだ行ったタイ料理屋さんで、店員さんが席を片付ける時に、空のビール瓶をポケットにしまうのを見た。自然にやってたから、きっといつもそうやってるんだろうと思って、それが良かった。日々の仕事の積み重ねから自然に生まれた習慣が垣間見えて、人の営みだな〜って思った。文化も歴史も芸術も。飲食店員の小さな習慣だって、人の営みの積み重ねだ。そういうものが愛おしいと思った。

 

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好きなことも嫌いなこともそんなにないけどやってみたいことは沢山ある気がしてる、必要なのはお金と元気。明日が来るのが楽しみだな〜、そんな毎日をおくりたい。絶対無理だ、って10年前の自分は思うと思うけど、今もそこそこかなり、そう思うけど、でも絶対ではないと思えるようになったんだよな〜。

地平の果てまで

さよなら。さようなら。左様なら。そうならねばならぬのら、別れましょう。この国の別れ際の言葉は、冷たい覚悟と共にある。この言葉を想う時、二度と会わないだろうと思われるひとのことを思い出して、意識が天国へ逝きかける。その全てが、左様ならば、というものだったと思う。ああ、あらゆるものは水が高きから低きへ落ちるが如く、自然に、収まりのよいところへ収まるものなのだなあ。悲しい。悲しい悲しい悲しい。おれが大事に思った誰かにとっておれは大事じゃなかったり、おれを大事に思う人のことをおれは大事じゃなかったりする。自然だ。水は燃やさないし火は凍らせない。自然だ。誰かが誰かであることを許すのなら、おれがおれであることが無くならないのなら、この惑星に空気はあるし、あなたに体温があるし、なのにこの感情はどこにもない。おれだけが知っている。どこにもないのに。そうか。おれしか知らないものが、この世には多すぎる。

春、燦々と散々

こないだ「春になったら何を始めるの?」って訊かれて、「そっか、春って何かを始める季節なんだ」と思った。すごい!本当にびっくりしてしまった。考えたこともない発想だったのに、空気のように自然に身に沁みた。何を始めようかな。タトゥーいれちゃおうかな、お花のやつ。ずっと考えてるんだけどちょっと怖いな。あとジムに通いたい!ぼくはだらしない性分だから、せめて身体くらいシュッとしてたい。春を想うと、頭の上の方がパーッと光っていくね。季節が巡るたび、季節のある国でよかったと思う。相変わらず季節に敏感に居たい、というくるりの歌詞、東京という曲にこの詞が入っているのはとてもよい。何度も書いた言った気がするけど、北海道には四季がないので、東京に来て初めて明確に季節を意識した。桜の季節に雪が溶け残っているのだ。四月に桜が咲いて、テレビの中の話じゃなく現実にそうなんだと思い、感動した。

 

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好きなもの、おれが好きだってことはきっと果てしないに決まってるんだから、いつか手の届かないところに行ってしまうんだろうなと思って勝手に悲しくなってしまうことがある。永遠とかさ、届かないじゃん。うつくしいものよりうつくしさそれ自体の方が好き、みたいな感じだ。物質世界だから届かないんだ、物質のままじゃ。むかし国語の試験で、ハチを叩き潰す時こそ力を入れなくてはならないのに、ハエを叩き潰す時は全力でいられて、ハチを潰す時は恐れて手加減してしまう、みたいな文章があった。近くにあったとしても気にすると届かなくなったりするんだ、歩き方を意識すると歩きづらくなってしまうように。遠くにあっても簡単に手に入るものだってあるのに。

 

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「この良さは自分にしかわからない」と思わせる作品が一流、みたいな話ってあるけど、これって人にもあると思った。「この街で俺以外 君のかわいさを知らない」的な。スピッツすごいね。おれがいちばん知ってるんだからな、って、思えば誰かを好きになった時、いつも思っていた。

あいのう、さいのう、ないのう

愛とは?みたいなことについてはおそらく10年とちょっとくらい考えているんだけどおれには引き出しがない、昨日ネットで「愛は<相手が自分に愛されても不快に思わないだろう・愛してもいいと思える>という前提の元におこなえる行為だから、まず自分を肯定できない人には他人を正しく愛することができません」的な旨の文を見かけて、そんなの当たり前じゃん、と思った。愛の才能。愛について思いを巡らす時、ややこしい数学の問題や、プログラムコードを読む時のような突っかかりとスムーズという概念への隔たりを感じる。無いんだろうなぁ、才能。誰かを褒める時は出来るだけ躊躇しないように普段からいつも心掛けているんだけど、逆にいうとおれにできる愛情表現ってそれだけなんだよな、引き出しがないってそういうこと。自分を肯定できていないからそこから先へ進めないんだろうなと思う。肯定とはおれにとってそれ以上ないくらい最上のものだ、自分が持ってないものを誰かに与えるということだから。その先へ進もうと欲を出せば、前後左右もわからない奔流に飲まれる。だから愛の在り方みたいなことについて考えられる人はすごいなぁって思う。それより先のことだもんな。愛とは?の先。在るということがまずあって、それをどう扱っていくかという話。そういう人でも悩んだりするんだろうけど、それでも多分ぼくには見えてないものが見えてるんだろうなとは思う。でもまあ絶対に諦めないんだけど、プログラムが読めなくても転職できるけど、愛に転職はないし。10年どころか20年かけて、思い出すのも忌々しいくらいの失敗を沢山して、考えて、少しづつマシになってきたとは思うから。感情と理性は相反するものだとずっと思ってきたんだけど、理性はブレーキじゃなくてハンドルみたいなものだって知ってから、理性というものに気を払い始めた。それがここ2年くらいの話。マシになるまであと8年くらいかなあ。8年後は34才か。恐ろしいことだらけだけど、それでも未来はきっとよくなっていると、迷いながらも口に出せるようになってきたから、よくなっていなくても、自分が本当に掴みたかった光を何かひとつくらい、掴んでいたらいいなあと思う。そう思えるようになったのも1人での話じゃないから、出会って何かをくれた人にはいつも泣きそうになるくらい感謝してる。

生存

春の嵐、ただでさえ風の強い千葉のはずれでは洗濯機の中のそれらの気分を味わった。暖かくなってきました、そちらの方はどうでしょうか。もうひとつの世界のぼく。穏やかに過ごせているでしょうか。調和のとれた大広間のようにやさしい冬の冷たさは懐かしく思うことはあれど、恋しく思うことはありません。ぼくはこちらでそう思えるもの達に出会いました。全てが必然のように思えてしまいます。これまでを振り返ろうとすると最初に浮かぶいくつかの大きな時点で、もしあちらを選んでいたら。あちらを選んでいなかったら。そんなものは本当にあるのでしょうか。あんなに緑色の夜をぼくは知らなかった。朝の似合う人、夜に近い人。1か0かではなく、全てを食べて、全てに飲まれて今、生きている。「運命ってあると思う?」この質問を何度も投げていた時期があって、あんなに納得する答えをくれる人がいるなんておれは知らなかった。絶対にありえないより外側の、この世界の枠組みが簡単に壊れたんだ。なめくじの色が本当はなめらかなミルク色で綺麗だと、知るより自然に知った。明日が来る。その次もきっと来る。触れられないけど消えないものが残念ながらあって、その切なさは正しい切なさなんだと思う。今を生きているなんて、なんて希望で、なんて残酷なんだろう。