かみさまは透明

透明が透明なのにそこにあるとわかるのは温度や輪郭や空気、匂いのおかげだ。目に見えないのに見えるもの、人間の五感はあるがままの頃から進歩したのだろうか、退化したのだろうか。眠れなくて布団の中で何時間も考え事をしていた頃を思い出す。今、お布団に入った途端に気絶してしまうからあんなことなかなかできないな。優しさも悲しみも怒りも誰かに伝わらないと無かったものとおんなじだとしたら、ひとりというのはとてもひとりだ。何かにとか誰かにとかなるとかならないとか、この身体があるとかないだとか、歌が歌えるだとか歌えないだとか。歌いたい。もうすぐ生まれた月が終わる。そろそろ気合いを入れ直そう。この冬はきっと雪が降る。かみさまは透明だけど、だからこそ、ぼくはあなたを信じる。

君になりたい

良いも悪いも暴力だと思う、思うけれど、暴力が美しくないこともないから、そういう世界だなと思う。沢山ある、も、何にも無いも、虚無じゃんと思う。何かが美しいだとか、何かが愚かだという感覚がある。ただ、在るだけなのに。今まで生きてきたことや、今まで見てきたもの、感じてきたもの、こうなりたい、こうなりたくない、そういうものによって、何かを美しいだとか、愚かだとか思う。ただ、在るだけなのに。昨日、美しくないと言われた。美しいから、美しくなくなって欲しくないと言われた。ぼくには一緒に不幸になってくれる人が欲しいと言っていた時期がある。当たり前だけど、みんな幸せを目指して生きている。ぼくは寝不足の夜とかに、自分は自分の才能や美しさをドブに浸けて、いつか取り返しがつかなくなった頃に哀しくなって一生を終えるというビジョンがある。そうあるべきだとさえ思ってしまう。生きているだけで重ねてしまう罪に、罰を一生かけて得なければと思っている。そんなこと無いことも本当は知ってる。もう少し、もう少しの違いで、誰か計画を狂わせて欲しい。

焦滅

初めて職場の仮眠室を使った。金曜、月曜と家に帰らずに仕事をしていた。いまこの文章は久しぶりの帰りの電車で書いている。さいきん思想やこだわりが泡になって蒸発していくような感覚を覚えている。通勤するより職場に泊まった方が楽だった。ベッドに横たわりスマホをいじってまた働くだけの日々を想った。いける気がした。いける気が、してしまった。

変わっていくことを否定するつもりはない。だけど、なんか、こう、寂しいじゃないか。別にそれが幸せならそれでいいんだけど。いいんだけどさあ。

このブログも久しぶりに開いた気がする。前回の記事から今日までの間にトシを1つとった。誕生日には決まって何かを記していたのに、今年の誕生日はといえば喘息にかかったことを提示されたことくらいしか思い出がない。

内省こそが君みたいなところがあると言われたことがある。魂の揺れ幅が君の存在だと言われたことがある。憎いと言われたことがある。好きだと言われたことがある。何かを恐れたり、何かを愛したつもりになったりしたことがある。単なる愚かさや青さだったとしても、感傷だったとしても、やっぱり何かをずっと諦めたくないよ、おれは。

ジュブナイル

届かないもの、手にあるもの、持ちもののことを想う。ゆるやかな時間が何かを殺すと信じていた。さよならの匂いに慣れすぎて、いつもそこにあることに気付かない。あー、アー、メーデーメーデー。きこえますか。なにもなかったこと、きこえますか。まぶたを閉じても光が透けることに驚いていたことを思い出した。みぎがひだりだと思い込んでいた。人生で最初の記憶はプールの水の中で生まれた。きもちよさと違和感がぼくを形作った。うつくしさの意味を知らなかった。知らなつづけている。渋谷がほんとにあると知った日、初めて音楽を聴いて泣いた。右目をあげられたならよかった。やさしくしてあげられたならよかった。忘れたいことあるけど。

入れ替わり時

地元・札幌に帰省していた。会いたい人にはたいてい会えたのでよかった。ほんとに好きな人が一握りでも居て、涙が零れそうになる。好きな人には好きと伝えている方だと思うのだけれど伝わっているだろうか。いや、言葉は伝わっているかも知れないけれど。伝えたいものの色や形はその人それぞれに対してあるのに、概ね「好き」という1つの言葉に依ってしまう。こんな風に暮らしていてほしいとか、こんな気持ちで居られていてほしいとか、こんなことが待っていてほしいとか、色んな気持ちがあるのに。

夜、3時くらいに「海に行きたい」とつぶやいた。「行こう」と言われた。疲れていたし、「やめよう」と言ったんだけど、「日和ったね」と冗談ぽく言われた。

「ぼくらが20代前半だったら、迷わず行ってただろうね」という話になり、「やっぱり行こうよ」と彼女が言うので、ぼくも時間の流れに抗いたいような気持ちになって、結局行くことにした。

くるりを聴きながら、チャットモンチーを聴きながら海を目指して、THE NOVEMBERSを聴きながら海を眺めて、SUPERCARスガシカオを聴きながら帰った。話すことなんて感傷事ばかりだったが、何の意味も無くたって、何の役にも立たなくたって、それでよかった。特別美味しいと感じたことのない、帰りに食べた山岡家のラーメンは今まででいちばん美味しかった。夜と朝との入れ替わり時に飲んだ缶コーヒーは、世界でいちばん美味しかった。明けてゆく空を見ながら聴いた夜空ノムコウは今まででいちばん良かった。あれからぼく達は何かを信じてこれたかな。悲しみっていつかは消えてしまうものなのかな。夜空の向こうに、本当にもう明日が待っていて、その先の未来を想った。

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混じり気のないもの

以前「愛について考え続けることは愛そのものに限りなく近い」という考え方を見かけた。そうなんだろうか。その方は「なんだかすごく助けられたような気になったのと同時に、やはり愛を確実に理解することは一生無いのだろうなと思った」と言っていた。これは直感だけど愛とやさしさは属性が近いところにあると思う。それと、うつくしさも。やさしさについて考え続けている。ぼくはうつくしさを知らない。カネコアヤノの「うつくしさも知らないやつ」という詞が少し刺さる。考えれば考えるほど境界線は曖昧になっていき、何にも怒ったり悲しんだりできないなと思う。何かを言い切ることが苦手だ。だから誰かのことを祝福できることはとてもありがたい。混じり気のない気持ちで居られることなんてそうそうない。透明にしてくれてありがとう。「そのままの君で居てね」と言ったら「ふざけるな」と言われたことを思い出した。このあいだ生まれて初めてお花を買った。すぐ枯れてしまうし、小さい頃には何の意味もないと思っていたけれど、ただうつくしいということが、ただうつくしいということを飾ったり誰かに贈ったりできるということが、尊いのだと気付いた。混じり気のないもの。うつくしさの意味をまたひとつ知った。

さいきんTHE NOVEMBERSを聴きっぱなしている、他に話せることが無いくらい。『Before Today』に付属のライナーノーツを読んだけどとても良かった、特にギターのケンゴマツモトの。各アルバムへの言及全てに「快進撃」という言葉が入っていた。随所随所にボーカルの小林祐介の才能への尊敬が記されているところも良かった。"「自分たちの運命を良くするんだ。」おっさん四人が心に誓い作った。"という一文にグッときた。自分たちの運命を良くする。運命ってもう決まってるものなのに、良くするんだっていうの、なんとなくストン、と腑に落ちた。意思と意志を感じる文だった。他のメンバーの文体それぞれからも、自らのバンドへのリスペクトみたいな精神が滲み出ていて、理想的なバンドだと思った。音楽は音楽なんだけど、これを読んでからだとまた聴こえ方が変わってきそう。音以外の情報によって音楽の聴こえ方が違ってくるのは純粋じゃないような後ろめたさに似た気持ちも起こるけれど、悪くないとも思う。人を聴くのだ。それも音楽の面白さというか、ぼくは結局モノでなく人に興味があるのだという、20代前半の頃に繰り返し言っていたことを改めて思った。東京に来てから、それとも働き始めてから、トシをとったから、何がきっかけかはわからないけれど、少し怖くなってしまった、人が。強く、堅く、頑なに信じてきたものが崩れていく。当たり前だ。何も知らない頃に思い込んでいたものばかりなのだから。それは混ざり合い純粋を失っていくということなのか、清濁を併せ持ち深化するということなのか、どちらにせよ恐ろしい。手の届かない速さの濁流に乗って、手の届かないところへ自分が流れていってしまうのが恐ろしい。今日は東京へ来て知り合った大好きな人の誕生日だった。東京へ来てなかったら出会ってなかった人が居て、そういう人のために何かを祈れることが、この街に来てよかったと思わせてくれる。傷付いても。ぼくはぼくのままで居られなくてももういいけど、キラキラ光る石を持っていたい。見つけたい。