ひとりみ

夜の海へ行った、海なんて遠いイメージしか無かったけど思ったより近くていつでも行けるなと思った。一回行ってみたらどこでも行けるし、一回やってみたら何でもできるんだよな、というのはもちろんわかっているんだけど気持ちは億劫だしやっぱり少しこわい。何かに誘われるように浜辺へ向かう、ボロボロのサンダルは海水を吸い、ぼくの足は泥まみれになってしまった。払う時に砂の粒を見た、黒とか茶とか白とか、ひとつひとつ大きさも違った。「砂」じゃなくて、一粒一粒がこの地球に生まれた物質の、自然によって整えられた形だと気付いた。この世の全てどころか、そんなこともぼくは知らない。そういうことに気付けるような気持ちで生きていたい。ぼくは独りだと思った、この場合の独りは、良い意味での独り。あの夜の海を見たのも知ったのもこの世でぼくだけだ。嬉しいような切ないような感じになって、人に会いたくなった。そしてこれはきっと正しい、人への会いたさだと思った。正しい気持ち。正しくない気持ち。感情を大事にしようとすればするほど、機械的になることが必要になってくると最近思う。してはいけないことをしないこと。したいことを確実におこなうこと。誰かが遠くへ行っても優しく見守れること。大切なものが壊れても受け容れられること。何度殺されかけても未来の砂場から希望のひと匙を掬おうとすること。壊れてもいい約束がしたい、約束ができるということを確かめたい。そういうものを大事にできるような気持ちでいること。きもち。どうしても信じられるものが無いから、足を撫でる波の感触を思い出している。

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虚血

25年とちょっと、愛だの夢だの希望だの友情だの、真実や嘘、本質、誠実さ、善く生きるということ、この身の真ん中を貫く芯と美しいとされるものについて、常日頃考えることに疲れてしまった。むしろよくここまで飽きずにやってきたものだ。身振り手振りに口頭によるコミュニケーションがヘタクソだからこそ別の道を探っていたはずが、遅筆な上に集中力もないため、作曲すらままならず、流れ過ぎていく日々と感情に才能なしと心の臓を痛めていたところ、友達が「ぜんぶ習慣らしいよ、2ヶ月間欲張らずに1個のことだけやってみなよ」と言うので最近また音楽のことばかり考えている。身体も立ち直ってきたので久しぶりにちゃんと歌ってみると、なるほど今更ながら、ぼくは話すより歌う方が得意そうだ。言葉は饒舌になり過ぎてしまう。すぐに有り余るほど伝えたくなってしまうから、もう歌か手紙くらいでしか、誰とも話したくないな。すぐに持ち得るものを乱雑に扱おうとしてしまう癖がある、壊して壊して壊して、残ったものだけ愛したいと2年前の今頃にも思った気がする。似たようなことを考えているが今は少し違うな、どうしても丁寧に扱いたいと思ってしまうものだけを大切にしたい、そう考えると、大したものはもう残っていないのだ。この気持ちも歌にしよう。何も報われなくたって、曲だけは残ってくれる。夏の間に残しておきたい気持ちがまだ幾つかあるんだ。だから身体よ早く治ってくれ〜。

打たれた点

本当のことにしか興味が無かった。それ故に嘘に対しても強い興味があった。「正直に生きなさい」というのは父の口癖だった。嘘をつくと怒られた。でも正直に言っても怒られることがあった。そうして嘘をつけなくなってしまったぼくはというと、嘘ではない、でも本当かというと微妙、というラインを探す癖みたいなものがついてしまった。さいきん、思考が邪魔くさい。嬉しいと思った瞬間は嬉しいし、悲しいと思った瞬間は悲しいのだ。かっこよくなりたいし、美しくなりたい。強くなりたいし、好きなものを守りたい。その少し後に付いてくる「ぼくなんかが…?」は要らないよなあ。狂いたくない

無為/無我

眠ってしまい真夜中に起きた、都合の良い夢を見てしまった。本当に本当に都合の良い、夢を見てしまった。全部が全部納得して進めることなんてないのに、納得できないを抱えたまま生きていくのはどうしてなんだろうか。納得できないものを納得したいと思う気持ちはなんなんだろうか。理解して、言葉にも出来るのに、執着はなぜ生まれるのだろうか。他人事なら愚かさは愛おしいと思えるかも知れないけれど、自分のこととなると苦しいことについて、他人を愛おしいなどと思うことは不誠実だと思う。誰かのために生きたいと思ったことがある。それ自体は間違いや不可能なことだったとしても、誰かに優しくする機会があったなら、出来るだけ適切な形で優しさを与えたいと思うのは当然のことだと思う。ぼくは優しいのだろうか。最近、思想なんて無意味だと思う。机上の空論というか、行動が伴わなければ無意味どころか、摩擦さえ生んでしまうと思う。考えすぎて何も出来ない人より、何も考えずに動ける人の方がよっぽど素敵だから、最近は意図的に何も考えないようにする意識をしている。意識。変わりたいのに、なかなか変われない。思想がおれを取り巻く。思想が人に牙を剥く。そしてこんなことを考えている暇があるなら、ひとつでも手を動かすべきだと、また自分を責める。

黒と宇宙の違い

病気になって身体がしんどくなって、身体がしんどくなったら心までしんどくなって、死にたい死にたいと毎日つぶやいてきっっったない部屋で寝込んでいたら、自分がいかに暮らしを蔑ろにしていたかを見つめさせられたような気がした。1億年ぶりに部屋を片付けようと思い立ち、本棚を整理していたらマンガを読みふけってしまうクセは昔となんら変わらない。途中で力尽きて片付けを始める前よりごたついてしまった部屋の片隅で、「こんなマンガ持ってたんだったな、すっかり忘れていた」。おれはおれが何を持っていたかを、本当は何を持てるはずだったかをすっかりすっかり忘れていた。いま青山景の「ピコーン!」が足元に転がっていたので読み返していた。青山景さんは自殺してしまった。だからか、なんとなく作品全体から、死に近い匂いがするような気がする。のは自殺してしまったという事実を知っているからだろうか。何にせよ、何も知らない読者のセンチメンタルをひっかく要素になってしまっていることを、どう思うのだろうか。死は強いから、美談にするのもセンチメンタルにするのも無粋で下世話だとしたら、何を思うのも難しい。何も思わないのも難しい、強いから。かつて麺類子という名前で絵を描いていた子が非常に好きだ。彼女に「おにいさんは死に近い気がする」と言われたことがある(彼女はぼくをおにいさんと呼ぶ)。「死ぬ死ぬ言ってなんだかんだしぶといタイプでしょ」、と幼馴染は言っていた。どっちだろうな。どっちでもいい、思索も虚無ももういい。ふと思った、ただそれだけのことを記した。

スクラップ・アンド・ビルド。

もういよいよ器だけが完成したという感じだ、ここまで25と余年、もう100年分は思考を費やした。毎日、今日こそはと思う。思考なんてもう余剰以外要らない、これは死であって死ではない。スクラップ・アンド・ビルド。これ以上もう要らない。そういうもの以外、もう要らない。まずは部屋を掃除しよう。まずは美しい人の真似から始めよう。ずっと人間になりたかった。今はもう機械でいい。むしろ機械がいい。

死ぬをしたくない、生きるをしたい

アメーバ性大腸炎っていう病気にかかってからしばらく経った。ケツからイチゴジャムみたいな血の塊がドバドバ出てくる、ホモセックスでかかる性感染症の一種らしくて医者が怪訝な顔をしてた。ウケる。ホモセックスはしてません。したのかな。記憶ないんだけど。血が止まらないのでこないだ初めて生理用ナプキンを買いました。ソフィがオススメらしいっす。

お腹の痛みは治まったけれど、身体のだるさや疲労は続いている。血を流しすぎて貧血みたいな感じもある。身体がしんどいと心までしんどくなってくるのには本当にまいる、せめてどっちかにしてくれ。バランス取ってほしい。他人の良いところや素敵なところが、だんだん恨めしくなってきて、思い入れのある人にこそ当たったりしてしまい、また自己嫌悪に陥る。悪循環が止まらない。初めて駅のホームに飛び降りようかという思考が頭をよぎった。3歩、足を前に出せば楽になれる。ぼくは人より生に執着しているので、絶対にそんなことを選ばないのだけれど、感触だけで言うならば、その時それは非常に魅力的に感じた。大学の後輩が電話に出てくれて助かった。電話したいが勝った。生きるために他人を使うのが情けないと思った。みんな生きてるのに。他人の生活を、赤の他人のつらさという障害物なんかで邪魔したくないと思った。本当につらい時に甘えたい人なんて、余計に好きな人だから、余計に苦しい。

 

ねえ、明日死んでしまおうかしら?もどかしいこと全ての当てつけに

君の心揺れますか?僕のことで後悔してくれますか?

これはスガシカオのThank Youという曲の歌詞だ。ぼくが死を選ぶ時なんて、誰かへの当てつけに決まっている。だから、あまり選びたくない。ぼくは生きることに執着している。生きるというのは、ぼくがぼくであるということだ。他人によって自分の人生が支配されてしまうのは、ぼくの人生がぼくのもので無くなるということだ。誰かのための自死を、ぼくが自ら心の底から望むのなら、その時はわからないけれど。

14才の時に、他人のために生きたいと思った。いま思うととても小さな出来事だったけれど、自分には生きる価値が無い、だからせめて他人のために尽くそうと、そういう風に思った。でも出来なかった。他人のために生きるなんて簡単ではない。というか、不可能だ。人間は機械ではない。意思に反して嫌なことを続けていると限界が来る。同じことを続けていると自我が芽生えてくる。誰かに深く関わろうとして、中途半端なところで引き返すのは、いつも余計に他人を傷付ける結果となった。結果的に自分に意識的に優しい人が、他人にも優しいのだと気付いた。気付いたけれど、その呪縛は未だにある。

 

茨木のり子の詩に

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

という有名な一節がある。

いかにも名言風な、かっこいい言葉だと思ったけれど、最近よくその意味を考える。

ぼくがぼくであるということ。自責と自省の違い。生きるということ。ああ生きたい。ぼくはぼくで在りたい。死にたくない。死んでもいいと思えるくらい生きたい。言葉で伝えられるものに意味が無いと思うのなら、言葉以外で伝えたい。自分の未熟さが悔しい。悔しくて苦しくて死んでしまいたい。生きたい。生きたい。生きたい。