打たれた点

本当のことにしか興味が無かった。それ故に嘘に対しても強い興味があった。「正直に生きなさい」というのは父の口癖だった。嘘をつくと怒られた。でも正直に言っても怒られることがあった。そうして嘘をつけなくなってしまったぼくはというと、嘘ではない、でも本当かというと微妙、というラインを探す癖みたいなものがついてしまった。さいきん、思考が邪魔くさい。嬉しいと思った瞬間は嬉しいし、悲しいと思った瞬間は悲しいのだ。かっこよくなりたいし、美しくなりたい。強くなりたいし、好きなものを守りたい。その少し後に付いてくる「ぼくなんかが…?」は要らないよなあ。狂いたくない

無為/無我

眠ってしまい真夜中に起きた、都合の良い夢を見てしまった。本当に本当に都合の良い、夢を見てしまった。全部が全部納得して進めることなんてないのに、納得できないを抱えたまま生きていくのはどうしてなんだろうか。納得できないものを納得したいと思う気持ちはなんなんだろうか。理解して、言葉にも出来るのに、執着はなぜ生まれるのだろうか。他人事なら愚かさは愛おしいと思えるかも知れないけれど、自分のこととなると苦しいことについて、他人を愛おしいなどと思うことは不誠実だと思う。誰かのために生きたいと思ったことがある。それ自体は間違いや不可能なことだったとしても、誰かに優しくする機会があったなら、出来るだけ適切な形で優しさを与えたいと思うのは当然のことだと思う。ぼくは優しいのだろうか。最近、思想なんて無意味だと思う。机上の空論というか、行動が伴わなければ無意味どころか、摩擦さえ生んでしまうと思う。考えすぎて何も出来ない人より、何も考えずに動ける人の方がよっぽど素敵だから、最近は意図的に何も考えないようにする意識をしている。意識。変わりたいのに、なかなか変われない。思想がおれを取り巻く。思想が人に牙を剥く。そしてこんなことを考えている暇があるなら、ひとつでも手を動かすべきだと、また自分を責める。

黒と宇宙の違い

病気になって身体がしんどくなって、身体がしんどくなったら心までしんどくなって、死にたい死にたいと毎日つぶやいてきっっったない部屋で寝込んでいたら、自分がいかに暮らしを蔑ろにしていたかを見つめさせられたような気がした。1億年ぶりに部屋を片付けようと思い立ち、本棚を整理していたらマンガを読みふけってしまうクセは昔となんら変わらない。途中で力尽きて片付けを始める前よりごたついてしまった部屋の片隅で、「こんなマンガ持ってたんだったな、すっかり忘れていた」。おれはおれが何を持っていたかを、本当は何を持てるはずだったかをすっかりすっかり忘れていた。いま青山景の「ピコーン!」が足元に転がっていたので読み返していた。青山景さんは自殺してしまった。だからか、なんとなく作品全体から、死に近い匂いがするような気がする。のは自殺してしまったという事実を知っているからだろうか。何にせよ、何も知らない読者のセンチメンタルをひっかく要素になってしまっていることを、どう思うのだろうか。死は強いから、美談にするのもセンチメンタルにするのも無粋で下世話だとしたら、何を思うのも難しい。何も思わないのも難しい、強いから。かつて麺類子という名前で絵を描いていた子が非常に好きだ。彼女に「おにいさんは死に近い気がする」と言われたことがある(彼女はぼくをおにいさんと呼ぶ)。「死ぬ死ぬ言ってなんだかんだしぶといタイプでしょ」、と幼馴染は言っていた。どっちだろうな。どっちでもいい、思索も虚無ももういい。ふと思った、ただそれだけのことを記した。

スクラップ・アンド・ビルド。

もういよいよ器だけが完成したという感じだ、ここまで25と余年、もう100年分は思考を費やした。毎日、今日こそはと思う。思考なんてもう余剰以外要らない、これは死であって死ではない。スクラップ・アンド・ビルド。これ以上もう要らない。そういうもの以外、もう要らない。まずは部屋を掃除しよう。まずは美しい人の真似から始めよう。ずっと人間になりたかった。今はもう機械でいい。むしろ機械がいい。

死ぬをしたくない、生きるをしたい

アメーバ性大腸炎っていう病気にかかってからしばらく経った。ケツからイチゴジャムみたいな血の塊がドバドバ出てくる、ホモセックスでかかる性感染症の一種らしくて医者が怪訝な顔をしてた。ウケる。ホモセックスはしてません。したのかな。記憶ないんだけど。血が止まらないのでこないだ初めて生理用ナプキンを買いました。ソフィがオススメらしいっす。

お腹の痛みは治まったけれど、身体のだるさや疲労は続いている。血を流しすぎて貧血みたいな感じもある。身体がしんどいと心までしんどくなってくるのには本当にまいる、せめてどっちかにしてくれ。バランス取ってほしい。他人の良いところや素敵なところが、だんだん恨めしくなってきて、思い入れのある人にこそ当たったりしてしまい、また自己嫌悪に陥る。悪循環が止まらない。初めて駅のホームに飛び降りようかという思考が頭をよぎった。3歩、足を前に出せば楽になれる。ぼくは人より生に執着しているので、絶対にそんなことを選ばないのだけれど、感触だけで言うならば、その時それは非常に魅力的に感じた。大学の後輩が電話に出てくれて助かった。電話したいが勝った。生きるために他人を使うのが情けないと思った。みんな生きてるのに。他人の生活を、赤の他人のつらさという障害物なんかで邪魔したくないと思った。本当につらい時に甘えたい人なんて、余計に好きな人だから、余計に苦しい。

 

ねえ、明日死んでしまおうかしら?もどかしいこと全ての当てつけに

君の心揺れますか?僕のことで後悔してくれますか?

これはスガシカオのThank Youという曲の歌詞だ。ぼくが死を選ぶ時なんて、誰かへの当てつけに決まっている。だから、あまり選びたくない。ぼくは生きることに執着している。生きるというのは、ぼくがぼくであるということだ。他人によって自分の人生が支配されてしまうのは、ぼくの人生がぼくのもので無くなるということだ。誰かのための自死を、ぼくが自ら心の底から望むのなら、その時はわからないけれど。

14才の時に、他人のために生きたいと思った。いま思うととても小さな出来事だったけれど、自分には生きる価値が無い、だからせめて他人のために尽くそうと、そういう風に思った。でも出来なかった。他人のために生きるなんて簡単ではない。というか、不可能だ。人間は機械ではない。意思に反して嫌なことを続けていると限界が来る。同じことを続けていると自我が芽生えてくる。誰かに深く関わろうとして、中途半端なところで引き返すのは、いつも余計に他人を傷付ける結果となった。結果的に自分に意識的に優しい人が、他人にも優しいのだと気付いた。気付いたけれど、その呪縛は未だにある。

 

茨木のり子の詩に

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

という有名な一節がある。

いかにも名言風な、かっこいい言葉だと思ったけれど、最近よくその意味を考える。

ぼくがぼくであるということ。自責と自省の違い。生きるということ。ああ生きたい。ぼくはぼくで在りたい。死にたくない。死んでもいいと思えるくらい生きたい。言葉で伝えられるものに意味が無いと思うのなら、言葉以外で伝えたい。自分の未熟さが悔しい。悔しくて苦しくて死んでしまいたい。生きたい。生きたい。生きたい。

生きるのがつらい話

昔から「死ぬくらいなら辞めたらいい」論者で、どうしようもなくなったら誰かれ構わず何でも相談してたし、「本当に死にたかったら辞めてるだろう」という強引な論理でなんだかんだ挫折などせず、水泳も10年続けたし、あんなに辛かった高校の部活動とか、楽器も弾けないしコミュ力も無くてバンドが組めなかった大学の軽音楽サークルも、結局辞めずに、何事も最後まで続けてきた。逆に言うともう辞め方とかわかんないんだよな。誰彼構わず何事も相談出来たのは人との距離感が掴めなかったからだ。初めてオナニーしてしまった時の相談とかしてしまってごめんよ、ハンナちゃん。幼少期から色々なことを深く考え込みがちだったので、持ち前の生きる才能の無さも何のその、沢山失敗をしてきた分、沢山考えて、沢山学んで、何とかそれなりの人間のようにここまで生きてきた。今はそれなりの分別もあり、それなりの賢さを持ち、それなりに愚かさを誤魔化せる程度の器を得ることが出来たと思う。だからもうあんまり立派だったり美しい人の邪魔をしてはいけないから本当に話を聞いてほしい人には甘えたり何かを相談してはいけないことだってちゃんとわかってるし、いかに立派な成人男性が「死にたい」だの「つらい」だのといった弱音を公衆の面前で吐くことがいかに需要がなく、みっともないことかだって知っている。だからもう何も言えない。誰にも何も言えないし、さっさと死にたい。実は簡単に死ねることも知っている。死に方なんてググるまでもない。そこから飛び降りれば死ぬ。死なない。本当は構ってほしいだけだから死なない。自分の立場が自分の努力の至らなさや行動力の無さから来るものだと知っているし、未来に希望なんて無いと言うほど、希望が無いなんてことも無いことを知っている。希望はある。夢は叶う。才能もある。ただおれが駄目なだけ。こんな日記をうっかり書いちゃう程度には、駄目なだけ。駄目って字面きついな。駄の目。ハズレ。失敗作。つら。

神様にならなくちゃいけない

だいたい2週間くらいかけて1ヶ月分の記憶を思い起こして日記を書いたら疲れてしまった。これから毎日書くことを目指してみようかな。今日の午前中は仕事をサボってお姉さんとお茶漬けを食べた。労働、ダルすぎる。六月四日の日曜日、東京に移り住んでから恐らく一等賞くらいに、気をおかしくしてしまった。昼過ぎに起きて、なんてことのないことが悲しくて涙がこぼれ、ひたすらアルコールを身体に入れながら「死にたい!死にたい!」と叫び、頭からワインとビールを被りながら地元の母に電話した。酒を被ったのは、なんとなく冷たくて気持ちがいい気がしたからだ。実際気持ちよかった。本当にもうこれ以上生きていける気がしなくて、でも死ぬ気もなかったから、何かを捨てる人生を遠くに見据えた。気が動転しているくせに、赤のワインを被ったら後々掃除が大変そうだな、とかどこか冷静な自分も居て、白のワインを被った。そのことについて、おれは堕落し切る才能もないのだと余計に落ち込んだ。頭すらおかしくなれないし、死を選ぶことも出来ない。生きてるだけで偉いけど、死を選ぶのだっておれからしたら偉いよ、おれには出来ないから。おれにとって大事なのはいつも結果じゃない、時代遅れだ。明確な信念と意志を持って選んだ死と、怠惰で無味な生なら前者の方がかっこいいと思ってしまう。苦難やその逃避からの死はちゃんとしんどいと思うから誤解はしないで欲しい。苦しくてどうしようもない人には出来れば頑張って欲しいし、生きてることをめちゃめちゃ褒める。生きてるの、めっちゃ偉い。気付いたら朝になっていて、この後スーツに着替えて仕事に向かうのが馬鹿馬鹿しすぎて、休んだ。ゆっくりするつもりだったけど、青野くんから連絡が来たから埼玉の端っこまで遊びに行った。遠すぎる。アホか。着いたら駅前で瓶ワイン一本持って待ってた。アホか。結局しこたま酒を飲んでしまった。許さねえ、楽しかったけど。あー、人生だるい。何がいちばんだるいって、結局自分は自分で救わなくちゃいけないところだ。外に神様がいる人は羨ましいっす、おれは神様にならなくちゃいけない。