うたのけもの

人でいながらにして人であることを忘れなくてはならない、けもの、獣でなくけもの、感性が風を切って余計なものを削ぎ落とし剥き出しになることを透明と呼ぶ。さいきんはカネコアヤノちゃんばかり聴いている、折坂悠太さんがカネコアヤノちゃんのことを「うたのけもの」と呼んでいた。うたのけもの。うたをうたうには、けものになることだ。「退屈な日々にさようならを」という映画のライブイベントに行ったんだ。2/24。マヒトゥ・ザ・ピーポーさん、chelmicoさん、カネコアヤノちゃん。カネコアヤノちゃんを「うたのけもの」と呼んだ折坂悠太さん。そう呼べる彼もまた透明な感性を持っている。出演者全員のライブが素晴らしかった。そんなイベントなんてそうそう無い。

「きみをしりたい」という曲がすき。きみはしらない、それでもいい、からだはふたつ。しりたいきもちはどこまでも残酷なものね。

だれかとひとつになれないことを自覚していきること。それは悲しみではないから、切なさを抱えて、いいえ、切なさを備えていきていく。涙がこぼれそうでこぼれない、そういう温度の音楽。またひとつうつくしいものを知った。

 

自分のおなかに手をあててみる。グルギュル、って、うごく。呼吸をするたびに胸の中がひろがる。温度がある。いきている。いきている。じぶんがいきていることを最近よく思い出す。もうすぐしんじゃうのかな、だったらやだな、愛おしいものが沢山あるのに、これからもきっと。時が流れるだけでセンチメンタルだから、いきているだけでずっとセンチメンタルだ。身体も愛もいくつも在りたい。

ぼくしか知らない公園

記憶を辿るに約10年振りに高熱が出た、あたまが痛いし非常に寒い、一人暮らしの病気はつらいと聞いていたが、これが噂に聞きしあのそれか〜って感じで、またひとつ知らない経験を得たと思うと、しんどいもののちょっとだけ嬉しい。本当に経験バカ。

さて、毎日夜更かしをしているせいか全く寝付けない。今朝はだいたい4:44に目が覚めた。かつてぼくのグミ好きは周知の事実で、お見舞いに来てくれた友達が各々、大量にグミを買って来てくれたことを思い出した。あれは14才くらいだったろうか、いや、誕生日プレゼントだっけ?後者だったような気もしてきた。それくらい、高熱なんて久方ぶりのことだ。

せっかくのおやすみなのに、何にもできないのしんどいなあ。でも何にもしないでお布団の中に居るのなんていつぶりのことだろう。昔は何にも興味がなくて、お布団の中で音楽を聴きながら、好きなマンガを読むことが一番の幸せだったというのに。人は変わらないけど変わる、いつ死ぬかわからない。

さいきん、過去に戻れたらどう生きるだろうとよく考える。あの失敗やこの失敗をどう上手くやってやろうかとは思うけれど、選択自体を変えるとはあまり思えないから、間違いはなかったのかもしれない。いや、どうかな。都合よく解釈しているだけかも知れない。ぼくは簡単にぼくを騙すことができるし、騙されているからなかなか気付かないんだ自分のことなのに。少なくとも誰も傷付けたくないとは思う。そうしていたらまだあの子は神様をやっていただろうか。

収拾

ブログを書くスピードを褒められた、確かにあんまり考えてなかったけど速いのかもしれない。本当は喋るくらいの速さで書きたい、フリック入力があって良かったとおもう、その時のその瞬間に思ったことを雰囲気やニュアンスを出来るだけ変えずに出したいから自ずと速くなるしそういう練習だ。アンテナを立てながら、吐き出すように書く。今日はバイオハザード7をプレイしていた。怖かった。実況動画でも配信しようかと録画していたんだけど自分の喋り方が気持ち悪すぎてちょっとだけ落ち込んだ、めちゃめちゃに早口。あと滑舌。みんなこんなキモい生き物に優しくしてくれて優しすぎると思った。みんなじゃないけど。そういえば気管支炎が再発して喉がいずい。あとそれでも町は廻っているの最終巻を読んだ。良いマンガだった。また終わっちゃったな、また始まるものがあるってわかってても終わっちゃうのは寂しい。ずっと寂しい。でも寂しくなくなるのは違うと思うからそれでいいと今は思う。ここまで6分。タイム・アタックみたいな気持ちになっちゃって不自然だったかもしれない。とりあえず泊まりに来た友達がいま布団を全部奪い取って床で寝ているのですこぶる寒いしどうやって寝ようか困っている。はあ

とおくとちかく

年々、人のことが愛おしい、千葉ニュータウン中央の駅前のベンチに座って空を見上げると月がないのに黒と黒が重なりあって星が光る、成田空港を発った飛行機の明かりがチカチカ、通りを急ぐ人たちを眺めながら幸福を遠目に見た。千葉ニュータウン中央駅は何にもないんだけど駅前だけひらけていて空がすごく広い、あと風がめちゃめちゃに吹く。今日ちょっと浮いた。片足を上げたら少し前に進んだ。気持ちよかった。

なんかどんどん人間離れしていくような気もするし、やっと人間になれたような感覚もある。全ては裏表で紙一重だから、正しい在り方なのかもしれない。遠くへ行けば行くほど真ん中に近づいていく。ぼくはぼくになっていく。沢山の人に出会って、自分の輪郭が見える化していく。違いを愛せるようになっていくことが、大人になっていくということなのかも知れない。ちゃんと傷付いてきたけど無駄じゃなかったから、馬鹿でも素直でよかった。

有無

境目はよい、器から水が溢れるその一瞬、夜が朝に代わるその一瞬、形のないものに輪郭が生まれる、形のあるぼくらに居場所がなくなる。何度も宙に浮いて身体から線が無くなる瞬間を知ってきた、あれは透明になることに似ている。あの人が京都へひとり旅行へ行った時に透明になったと言うので、京都という街にはそういうイメージがある。去年の今頃、鴨川が見える公園でひとりギターを弾いた。あの時に作った曲はなんとまだ完成していない。自分を大切にするとかしないとか、こういうところがぼくがぼくを消費している所以だ。いま電車に乗るために走った、空を見上げた、黒が黒を塗り潰す真っ当な黒だった。誰のことも傷付けたくないと強く思い出す、加算を無視するならその方法は無になることに他ならないと思うけど、ぼくが死んだら傷付いてくれる誰かが居てくれるようになった。生きているということ。幅が触れているということ。世界の輪郭線を揺らすということだ。生きるをさせてくれてみんな本当にありがとう、いつでも殺してくれ。

星と街と人と業とキラキラと光る何かそのやつ

自分に自分のコントロールがどんどん追いつけなくなってどんどん知らないところへ行ってしまうイメージ、あんなに怖かったのにジェットコースターにも慣れてきてしまったな、せっかく人間になれたのに、せっかく人間にしてもらったのに。誰のことも傷付けたくないな、誰のことも傷付けたくない、なのに出来るだけ失わないことよりもずっとずっと何かを手にすることを選んでしまうんだ、な、今日は東京に来て最も東京らしい日だった、東京に来てもうすぐ2年になる。まったく飽きないし毎日感動している、田舎者だなあまったく。ここは地獄だから人が美しい、美しくなきゃ流れていってしまうから、美しい人がたくさん目につくなあ。恵まれすぎている。おれは恵まれすぎている。死にたくないなあ、今世はやっぱり人でいいかもしれない。困った、人だからこそ見られたものが沢山ある、でも死にたくない、誰も傷付けたくない。もうほとんど病気だ。永遠なんて要らないから、永遠に瞬間が欲しい。

ひと・コミュニケーション

2/11(土).

名前も顔も知らない人と何かをするという予定が入っていた。池袋で集合し(2人とも遅刻した)、やったことといえば、昼過ぎから公園で酒を飲み、猫と戯れ、デパートの屋上でうどんを食べ、サンバを踊り、サイゼリヤでまた酒を飲み、サンバを踊った。うどんもサイゼリヤもおやつなので、帰ったら鍋を食べると彼女は言って去っていった。あこちすちゃん。素敵な良い生き物だった。また会いたい。

とぼけた顔をしていたけれど、ときたま非常に冷静な発言を繰り返していて、明晰さが伺えた。「雑魚は雑魚らしく傷付いとけよ」っていう言葉が印象に残った。

 

2/12(日).

G大量発生の夢を見て目覚め最悪だった。昼前に起きたら友達の犬くんから連絡が来ていた。共に昼食を取り、部屋へ迎え入れた。夕方からライブだったため、ぼくが練習している間、犬くんは風呂場を掃除してくれていた。15時頃、「また部屋を掃除しに来る」と言って出て行った。それからはまた1人で練習。

夕方からはさいあくななちゃんとミニライブ。ななちゃんはやっぱり凄い。音楽的な音楽とか芸術的な芸術とか関係なく「自己表現をする」ということに完全に振り切れている。今まで何度も人と一緒に演奏をしたことがあったけれど、そのどれとも、明らかに違う感覚だった。

大学時代、軽音楽サークルに所属していた。当たり前だけど、軽音楽サークルに所属している人は音楽が好きで、音楽を聴いてきて、音楽をしたい人達だ。だから当たり前のように、みんな「音楽をしよう」という意識で演奏をする。例えばリズムに合わせようだとか、音程を外さないようにしようだとか、周りの音を聴こうだとか。でもななちゃんとの演奏は、完全に戦いだった。例えるなら、ずっとフリースタイルダンジョンに参戦させられてる感じ。一緒に演奏している筈なのに、彼女は完全にぼくとも対決していた。ちなみにこれは、ななちゃんがリズムを大事にしていないとか、音程をメチャクチャに無視しているとか、そういう意味ではない。楽曲はあるので、もちろんそれを上手に演奏しようとはしている。ただ目的が完全に「音楽」ではなく「表現」なので、上手いとか下手以上の、圧倒的な正しさがそこにはあった。ビシバシと生と空気を感じた。呑まれ尽くした。今回は完全に、ぼくの負けだった。

と、同時に音楽の可能性を思い知った。たった20分弱の演奏で、ぼくはここまで感じ取ったのだ。常識的に考えて、あり得ないコミュニケーションだ。「音楽はコミュニケーションだ」とずっと思ってきたけれど、それを強く感じ取れた瞬間は、実はあまりない。その真価を、音楽の道を進んできた訳ではない人から教わった。非常に刺激的な体験だった。

「表現する」ということに特化した人と対面するたびに、自分のそういう才能の無さに少し落ち込むけれど、頑張り尽くしていないおれに、落ち込む資格はない。と、最近は思っている。なぜなら、「表現の才能」は、色々な才能の組み合わせだからだ。ぼくにしかない才能を組み合わせて、ぼくにしか出来ない生き方や表現が、間違いなくあると思う。別にぼく以外にも。自分の才能をもう全部知り尽くしているなんて、そっちの方がきっと傲慢だと思う。

ぼくは何も知らない。世界のことも、自分自身のことも。一生知らないのかも知れないから、一生自分で遊び尽くせるな。自分だけじゃなく、ぼくがいま仲良くしてる人達はみんな大好き。