毎日思い出すってことは昨日それがあったってこととおんなじだな

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自分のTwitterを見返していたら2016年10月29日8時6分に「妖怪と付き合いたい、おれが死んだ500年後とかにたまに思い出して欲しい」ってつぶやいてた。自分が死んだ後も誰かの中に残るのは嬉しいと思うし、ごめんねって思う。いつもずっと覚えているのは、終わったものへの執着が病的なほうだと思うから、たまには覚えていてもらいたいと思ったんだと思う。さーよならーだーいすきなーひとーって今日なんか一日中あたまのなかで流れてた。以前友達に「好きなのに別れるなんてことこの世にあると思ってなかった」って言ったら「子供だったんだね」って返された。子供だったんでは、ないと思うよ。なんか恋愛事のようなことばかりさいきん書いてるけど、別に恋してる訳でも失恋した訳でもないです。なんにもないです。なんにもないから昔のことをよく思い出しているってだけです。

あの青、白

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今日いちばんの刺さり、なんて透明なことを言うんだろう。これを言っていたのはどうやら高校3年生なんだけど、その年齢だったことも尊さ。今、この時に言うんだ、っていう。だって多分この子はこの先もうこれとおんなじ意味で「大人」って言葉使えないとおもうから。

刺青、なんとなくずっと憧れがあるんだけど、この理由でする刺青が今のところ一等賞で美しいな、ぼくはいつから大人になったんだろう。こどものうちに刺青いれて、後悔する大人にはもうなれないんだなあ

 

星の砂

2月5日、久しぶりにラブサマと遊んだ。ラブサマの部屋は物や空気が詰め込まれてしっちゃかめっちゃかだけど、例えば本棚とかCDラックとか、その中で彼女の好きなものがキラキラ光っていて埋もれていない、ラブサマらしくて良い。昼過ぎに会ってうどんを食べて、酒を飲みながらオセロをして、風俗嬢の映画を観てたこ焼きをしてまた映画を観た。朝なのに空は暗かった。デモ音源を聴かせてもらったんだけど前より格段に良くなってた。来年はもっと良くなってるんだと思う。その来年はもっと。そう思わせてくれるのが音楽性とかコンテンツ力とかより、何よりあの子の魅力なんだと思う。はしゃぎながら褒めたけど実はけっこう本気で感動してちょっとだけ震えてしまった、美しいなあって思う。おれはあとどれくらい美しいものを見て、知って、そして取りこぼしていくんだろう。ずっと感動していたい。ずっと何かを信じていたい。帰り道、電車を降りたらちょっとだけ空が明るくなっていた。時は流れる。星は流れる。こういう時に会いたいと思うような人も、思い出も、たくさん流れていってしまった。もういちど言うけど時は流れる。おれはどこかへ行ってしまう。おれはどこかへ行ってしまう。それだけはもしかしたら、少しだけ美しいのかもしれない。

わからないなら死ねばいい、ぼくが好きな大森靖子さんの曲の一節で、物騒かも知れないけれど、「物騒かも知れないけれど」って枕詞をつけなきゃいけないような、自分の「こんなこと思っちゃいけないよな」みたいな気持ちも肯定してくれてるような気になる一文で、地味に好きなんだけど、同じく大森靖子さんのファンである人が「わからないなら笑えばいい」と言っていて、美しい人だなと思った、あなたはそれを受けてそれを選ぶんだなという感じ、わからないなら死ねばいい

地下二階

なんとなく急に「永遠って知ってる?」って友達に訊いてしまった、ちゃんと答えてくれるの嬉しい、頭がおかしい人だと思われても仕方ないし、実際もうそこそこ頭がおかしいのかもしれない。どっちにしろそういう人に出会えて仲良くしてくれて本当にありがとうございます。週末はたくさん遊んだ!会いたい人話したい人何かをしたい人が多すぎる、時間が足りないし身体も足りない、でも帰りに嫌なものも見た、泥酔して倒れてる女の人をiPhoneで撮って「こわ〜」「こっち見た〜」とかやってるカップルを見た、あれらでも人の子なんだって、全肯定なんて最悪だと思った、あんなの肯定したくないし、どんなに良い人でも残酷な部分を持ってない人っていないのかなとも思った、個人的でいようと思った、好きな人が好きです、好きな人が好きです、好きな人だけぼくは好きです、あなたが人を殺しても、ちゃんと事情を聞いて、そのあと多分味方すると思います

余命数百年

最近あったこと、思ったこと。前代未聞の人だと言われた。すごい人には誰かがすごいって言ってあげなくちゃならない。ぼくが思うことはぼくしか知らないから、ちゃんと外に出してあげなくちゃならない。きみのことを偉いといちばん思ってるのはぼくだと思う。きみがぼくの愚かさを愛してあげられるのは自分だけだと言っていたの、本当は嘘じゃなかったと思う。君もあの子も言っていた、3年くらいという期間が本当だったかはわからない。そして気がつくと、もうすぐ最初の3年が経つ。氷の街という曲について「今の君だね」と言ってもらってからは、もう3年くらい経った。だけど今でも歌ってる。違和感はある。みんな変わっていく。痛みだけが地続きだから、結局そこに帰ってくる。変わっていくものを認めるのに20年くらいかかったから、寿命がまだまだ足りない。心がまだまだ足りない。

わたしのここ

ずっと個人的でいたい、ずっとずっとそれはもうずっと個人的でいたい。いるんだろうな〜きっと。これは社会性というものを貶めているわけではなく、社会性は社会的なステージでのみ評価されるべきだと思っている。たとえば人を愛すること(別にこの例えは何だっていい)。別に殺し殺されたっていいんですよ、お互いの合意の確信さえあれば。友達にしては重いだとか、恋人にしては軽いだとか、誰だ情を最初に重量で量り始めた輩は。求められるところで立っていようとすること(社会性)は素敵だけど、感情のステージでは不純だ。なんだっていいんだ、刺したら刺され返されるとしても、愛そうとしても蹴られるし、振りほどいても付いてくる。他に言いようがないものを天才と呼んだり、他に言いようがないからとりあえず愛と名付けたりする。いつだって言葉は後付けだということを忘れない。順番が逆だということに気付いていない人が多いように思う。個人的でいたい。個人的でいたいから、イヤホンの中で青葉市子を最大音量で流しています。