戦場、線上、洗浄

そういえば年末年始は実家に帰ってのんびりしていた。日本橋ヨヲコ先生の「G戦場ヘヴンズドア」を読み直したら昔はそうでもなかったのに、今は刺さりまくってウッカリ東京の部屋に持ち帰ってきてしまった。この凄まじさを全く感じられなかった過去の自分を想い、感性の幅が拡がっているような気がして少し嬉しかった。多分、おれは良くなっている。そうであってほしい。

本物と偽物、みんな本物になんか興味はない、これは間違いない。絶望より絶望っぽいものが好かれるし、悲しみより悲しみっぽいものが好かれる。絶望も悲しみも本当は誰にも理解できないし、何処にも行けないものだから。もちろん幸せだって本当は個人的でなきゃ意味がないから、人は幸せっぽいものに憧れ、まだ見ぬ幸せっぽい場所を目指す。でもG戦場ヘヴンズドアは本物だったし完全にフィクション・ストーリーだった。本物の偽物には血潮が通う。そういう覚悟を感じた。

「本当に面白い作品は心が健康じゃないと作れない」というようなセリフがひとつ、印象的だった。ここでいう健康とは文字通りの意味なのだろうか。主人公は創作を「狂ったとこ治してる」と表現していた。健康と狂気は相対していないようだし、そしてやはり両立するものなのだろう。 

ぼくらはぼくらにならなくちゃならない。そしてどこまで狂っても狂っても健康でいなくちゃならない。悲惨で悲痛で熱くてポジティブな凄まじい作品だった。美しいものが好き。

 

 

大学生

美化したくないからいつでも始めたいだけなんだ、でもそういう衝動的な気持ちは基本的に犯罪者思考と通ずるな、でもしょーがないよね、感情は個人的で個人的じゃなきゃ意味ないんだから社会に沿うわけがない‬、ロックンローラーが反社会的なのではなくて、ロックンロールしていたら反社会的になっていただけなのだろう。ただの順番なのになんでみんなわからないんだろう、別にぼくはロックンローラーでも何でもないんだけれど。このまま悲しくなり尽くしていっそ星になってしまえたらな。善悪の類に染まらず君とぼくで居たかったな。2両の電車をぼくは見たことがない。君に会ったことがないぼくにも、ぼくは会ったことがない。

ポップンロール

昔付き合っていた女の子が「かつて好きで今はもう会えない人はもう死んだ人だと思ってる、でも来世では会ってみたい」のようなことを言っていた。じゃあぼくはもう死んだ人だ、彼女は来世で会いたいみたいだけど、今世でもう会えないのもぼくは結構さびしいよ。ぼくがぼくで君が君だったから、それはもう全部仕方ないのかも知れないけれど。

全部仕方ない。ぼくの辞書に「仕方ない」という言葉はなかった。

二度と会えないような気がしていても、思いも寄らないことで再会することだってあるかも知れないし、死なない限りどんな可能性だってあると思っていた。これはある意味では間違っていないと今でも思うし、またある意味では間違っていた。別れを経た人とはまた出会うことがあるかも知れないけれど、別れがあったという事実は消えないからだ。

別に人との出会いに限らず、もっと広く考えると、例えばどうしてもお金が無くて大学に行けないとか、「仕方のないこと」の例は容易に想像がつくので、ぼくは随分恵まれていたんだということに本当に最近まで気が付かないでいた。そして突き抜け切らずにこういうことに気付いてしまうあたり、そういう才能が中途半端だなあなどと思う。

 

誰にも言えないことを沢山抱えたら誰よりも特別になれると思っていた。

誰も気に留めないことを見つめ続けることが特別な才能だと思っていた。

だからぼくは「当たり前」を随分見過ごしてきたと思う。

例えば「なくしてから大切だったことに気付く」なんてJポップの失恋ソングの中でも使い古されすぎたフレーズだけれども、そんな当たり前すぎるほど当たり前の気持ちが自分にハマりこむだなんてなんだか気恥ずかしいし、でも当たり前のことはみんなが思うから当たり前なのであって、それはある種の真実みみたいなものを帯びてもいるのだなあと最近よく思う。当たり前、平凡、ありふれたもの。そういうものの、表面だけをなぞってわかったような気がして、その深さをぼくは知らなかった。その深みから自分の感覚や言葉で、上手く底をさらってきて形に落としこむ才能のことを「ポップ・センス」などと呼ぶのだろう。

 

論旨が明後日の方向を向いている。何を言いたいでもなく思い付くがままに筆を進めるから、よくこういうことが起こる。今夜は雨だった。ひどく冷たい雨だった。なのにわざわざ外に出て、雨に濡れてきた。雨に濡れながらYouTubeクリープハイプのライブ音源を聴いていたらたまらなく良かった。どうせ死なないんだから、そういう無駄なことをしていきたい。そういう意味のわからない瞬間をもう少し大事にしてもいい気がしました。

 

ちなみに今夜の曲はex.ダーリンです。

黒雨

数多無数の140文字によって得られる神視点はぼくだけの孤独や喜びや悲しみや誰にもわかってほしくなかったことを「これくらいの量の・これくらいの立ち位置の」に霧散させるから自分の感情にも自信を持てなくなってしまうな、今日は雨が冷たい、罰を与えるために後でもう一度外へ出ようと思う。涙を赤で塗って闇を消そうとした5年ほど前の夏に想いを馳せる。

ほどほど

罰を与えるように生きていくことについてはそれなりに納得しているんだけれど、それがいつ終わるかわからないということについては、自分で課しているにも関わらず、けっこうヤキモキしてしまう。‪人間あるあるとして「愚かである」ということが挙げられたとして、絶対に愚かで居たいんだよなぼくは、愚かでいながら神様に近付くにはどうしたらいいかずっと思案している‬。不自然なことをしてはいけない、人は神様にはなれないので。でも人でありながら神様にはきっとなれるんだよ、だって自分の世界には自分しか居ないのだから。と、頭で理解はしていても愚の骨頂、自分の持ち物全てをコントロールできた試しなど無い。愚かさを抱きしめながら今日もほどほどに、ほどほどというものを求めます。

生きる中毒

器が小さいから世界が思い通りにならないことにイライラしちゃう、仕事先が新宿から千葉に変わった、職場の雰囲気は甘めに見積もっても前の5倍くらい良くてとりあえずは安心した。文句があるとすればすこぶる遠いってことくらい。別に朝早いのはいいんだけど、仕事終わりにどこかに寄るのに1時間半かかってしまう。金曜日は地下アイドルにハマっちゃうおじさんの映画を観に行く予定なんだけど開演に間に合うかなあ。昨日はこの1年の、いや、この4年くらいの人間関係色々を思い出して哀しくなっていた。一番を見つけるとそこでゴールしてしまうから、ゴールできないように大事なものから切り捨ててきた。全部に対して繋ぎ止められないような距離でしか関係を保てなくなってきた。人は孤独だなんて当たり前のことだけれど、当たり前のことだし本当のことであってしまうから、本当のことである以上ずっと見つめてしまうんだろうと思った。そのくせ煮え切っていないから他人に縋ってしまう。おなかの中に黒いものがのしかかってきて、これを確か4年くらい前の冬に絶望と名前をつけた。そう呼んでいいと思った。見ないフリをしてギターを弾いて歌を歌った。昨日はもうひとつ悲しいことがあった。いつまでも何を見つめているのだろう。いつどこの誰と話しているつもりなんだろう。でもぼくも君と話す時は昔のことを思い出すからおあいこかもしれない。みんな終わったものを終わったものだと認識できているようなので、ぼくに足りなかったものはもしかしたらその点なのかも知れない。でもぼくは、負け続けたいのかも知れない。一生手の届かないものを愛しみつづける限り、群衆のままで居られる。生きたいより死にたくないが強い限り手の震えがおさまらない。

肯定ならまかせろ

それなりの時間をかけて暗いブログを書いていたんだけどやめた、去年が感傷の年だとしたら今年は焦燥の年でした、来年はそうだな、遠くへ行きたい。自力ならもちろん良いし、流されるとしてもどんどん遠くまで流されていきたい、孤独だとか諦めだとか、掬えなかったものとか、好きになりたかった人とか好きなものとか好きだったものとか、抱えたり吐いたりして生きていくしかないので、それはそれでもういいので、壊れながらでも平穏でも、ちょっとでも良い方向に向かうように生きていこうと思います。そのために少しづつ自分を信じていこうと思います。そんなありふれたような希望や意気込みなんて気恥ずかしいけれど、誰かと違う必要なんてないし、というかそもそもぼくが思っていたよりよっぽどみんなオリジナルに生きてるからぼくはぼくを肯定していいんだと思った、今年はたくさん出会いがあった、前から出会っていた人にも発見があった、みんなありがとう本当に感謝してる、みんなで一括りにしたけど、ちゃんと全員に違う形で感謝してる。幸せでも不幸でもめいっぱい、みんな行きたいところに行き着けたら嬉しいな。